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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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この時、落雷によって居城としていた綿竹が焼失してしまったために、劉焉はさらに奥地の[[成都]]に遷らざるを得なくなった。
 
[[興平 (漢)|興平]]元年([[194年]])、劉焉は、子らの非業の死や災害など、相次ぐ不幸が重なったため、その心痛から背中に悪性腫瘍を患い同年に死去してしまった。
 
実力者であった趙韙の思惑で、暗愚との評判であった劉璋が後を継いだ。趙韙は朝廷に劉璋を益州刺史に推挙し、朝廷からは監軍使者・益州牧を兼務することを許された。趙韙も征東中郎将に任命され、荊州の劉表への攻撃を命じられた<ref>『英雄記』によると、長安の朝廷は潁川の[[扈瑁]]を益州刺史に任命し、荊州別駕の[[劉闔]]と劉璋の将の[[沈彌]]・[[婁發]]・[[甘寧]]を叛かせ劉璋を攻撃させたが勝てず、彼等は荊州に逃亡した。劉璋は趙韙を荊州に侵攻させるため、朐に駐屯させたという</ref>。