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[[承平天慶の乱]]において[[平将門]]が新皇として関東八ヶ国の国司を任命した際も、常陸と上総の国司は「[[常陸国司|常陸介]]」「[[上総国|上総介]]」を任命している。叛乱勢力であり親王任国の慣習を守る必要は無いのだが、伝統として定着していたのであろう。しかし何故か上野だけは「上野守」を任命しており、これは将門が上野国には特別な意味を見出していなかったからだと言われている。
 
時代が下り、[[後醍醐天皇]]の[[建武の新政]]期には、一時期[[陸奥国]]も親王任国とされ、[[後村上天皇|義良親王]]が陸奥太守として実際に陸奥国へ赴任した。
 
名目としての親王任国はその後も継続した。戦国時代の[[織田信長]]が「上総介」<ref>当初は「上総守」を名乗っていたが、すぐのちに「介」に改めたため、「親王任国制度を知らなかったため勘違いし、のち訂正した」とする説がある。</ref>を[[僭称]]し、[[江戸時代]]に入っても、[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家康]]子息の[[松平忠輝]]は「上総介」に任官し、また[[本多正純]]、[[吉良義央]]、[[小栗忠順]]が「上野介」に任官したのも、名目のみとは言え「上総守」「上野守」の官職が親王にしか許されなかった慣例を守っていたからである。