「如意ヶ嶽」の版間の差分

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成り立ちについては明らかではないが歴史はかなり古いらしく、恐らく最も古くは938年の『貞信公記』で言及されており、さらに『今昔物語』巻15のほか<!-- 976年の話 -->、『続本朝往生伝』でも平安時代中期の公家、[[慶滋保胤]]が如意輪寺に住まっていたとの記述が見られる<!-- 997年の話 -->。また『天台宗 如意寺門跡歴代』では、健保年間の公胤が門跡初代である。[[鎌倉幕府]]ともゆかりがあり、二代目将軍[[源頼家]]の子、[[公暁]]も門跡を勤めた<ref>『[[吾妻鏡]]』による。</ref>。
 
[[鎌倉時代]]に栄えたあと1336年(建武3年)、戦火に巻き込まれ焼失<ref>「如意寺発見への挑み 1」によれば、園城寺『寺門伝記補録』に曰く、1336年に罹災した後、1468年に再び焼失した。</ref>したが、『拾遺都名所図会』<!-- 巻2 -->によれば、霊鑑寺尼公([[後水尾天皇|後水尾院]]皇女)により鹿ヶ谷桜谷町あたりに小堂が再建されたという<ref group = *>一部の古文書で「霊鑑寺の南」として如意寺が紹介されているのは、これのこと。</ref><ref>『平安時代山岳伽羅の調査研究』p.7</ref>。[[明治]]の初年頃に再び廃絶した。
 
現在でも多数の遺構が残り、瓦・陶磁器などが多く出土している。如意寺跡調査会らによれば本堂跡は標高415メートル、雨神社と如意ヶ嶽山頂の間、やや南の地点で東西30メートル、南北40メートル程度の平坦地。北、東、西は崖に囲まれ、南側は谷となっている<ref>『平安時代山岳伽羅の調査研究』p.13-15、図版第1, 3, 5</ref><ref>『平安時代山岳伽羅の調査研究』pp.5-9 全般または基礎的な事実について。pp.45- 出土物について(直接の出典とはしていない)。p.64「如意寺の創建について」(小山田和夫)、p.74「如意寺について」(佐々木令信)</ref><ref name = shouwa /><ref>『京都・山城 寺院神社大事典』p.555</ref><ref name = kyoutoshino_chimei>『京都市の地名』</ref><ref name = hakken1>「如意寺跡発見への挑み 1」</ref><ref>「如意寺とその古図」</ref><ref name = kyojizo /><ref group = *>京都市遺跡地図台帳425。</ref><ref group = *>『昭和京都名所図会』によれば、跡地はバレーコートになっているという。</ref>。