「レオポルト (アンハルト=ケーテン侯)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
13行目:
1710年[[10月9日]]、レオポルトは[[グランドツアー]]を開始した。その際、ルター派のクリストフ・ヨープスト・フォン・ツァンティアーが随行した。「適切な改革派の案内人が見からなかった」というのが理由であった。1710年から[[1711年]]にかけての冬、[[デン・ハーグ]]を旅した。デン・ハーグでは4ヶ月しか滞在しなかったが、その間に12ものオペラを鑑賞した。レオポルトの音楽への傾倒ぶりがよく表れている。とりわけレオポルトは[[ジャン=バティスト・リュリ]]の作品を好み、その出版譜を手に入れ大事にした。またレオポルトは自ら[[チェンバロ]]や[[ヴァイオリン]]の演奏をした。
 
レオポルトが1711年に自国へ戻ると、フリードリヒ1世はレオポルトを「指揮権を持つプロイセンに任命しようとしたが、レオポルトの母の賛同が得られず、この案は取り消された。その代わりレオポルトは[[イギリス]]へ旅を継続し、[[ロンドン]]の歌劇場と[[オクスフォード大学]]を訪れた。レオポルトはこの大学の図書館に強い関心を抱いた。
 
それから[[ネーデルラント連邦共和国|オランダ]]、[[フランクフルト・アム・マイン]]、[[アウクスブルク]]をまわってイタリアへと移動した。[[ヴェネツィア]]ではオペラをよく鑑賞し、レオポルト分の出費だけでも130[[ターラー]]に上った。また[[ローマ]]を巡るにあたってはヴァイオリンの名人(おそらく[[ヨハン・ダーフィト・ハイニヒェン]])を一ヶ月の間雇っている。この名人はローマ以降もイタリアの案内をしばらく務めたことだろう。さらに[[フィレンツェ]]を訪れ、[[トリノ]]を訪れ、9日後には[[ウィーン]]を訪れた。そこでレオポルトは[[フランチェスコ・マンチーニ]]の「12のカンタータ集」を入手している。
 
[[1713年]][[4月17日]]、レオポルトはケーテンへと帰った。グランド・ツアーの総額は55,749ターラーだった。宮廷ではこの高額の出費をめぐに批判の声が上がて口論巻き起こり、レオポルトはそれを宮廷楽団を設立し、旅の出費の半を私財から出すことで納得させこの批判を抑えた。[[1713年]]、[[ベルリン]]の宮廷楽団が解散したため、レオポルトはとびきりすぐれた音楽家を雇うことができた。この新しい宮廷楽団の初代指揮者としてレオポルトがベルリンにいたころから知っていたオペラ作曲家シュトリッカーが[[1714年]]雇われた。
 
=== 統治時代 ===