「フアン・マヌエル・デ・ロサス」の版間の差分

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1835年に州知事に返り咲き、17年間独裁政治を行い反対派や自由主義者を弾圧した。ロサスは[[保護貿易]]政策を巡る英仏や[[ウルグアイ]]との戦争([[大戦争]])を乗り越え、1850年には英仏両国を撤退に追いやった。この時期にロサスは[[フランス]]の[[ブローニュ=シュル=メール]]に亡命していたアルゼンチンの[[リベルタドーレス|解放者]][[ホセ・デ・サン・マルティン]]からサーベルを贈られている。しかし、1852年に、腹心だった{{仮リンク|フスト・ホセ・デ・ウルキーサ|en|Justo José de Urquiza}}が反乱を起こすと、ウルキーサに{{仮リンク|カセーロスの戦い|es|Batalla de Caseros}}({{lang-es-short|Batalla de Caseros}})で敗れ、イギリス船に乗り込み、娘と共に亡命した。後の為政者とは違ってロサスは海外に資産を残さなかったため、[[サウサンプトン]]で困窮の内に死去した。
 
失脚後、自由主義者の政権により長らくロサスは「独裁王」、「暴君」、「南米の[[ネロ]]」と呼ばれて独裁者の代表格として蛇蝎のように嫌われ、遺体は長らくアルゼンチンに入国することを拒まれてきた。しかし、1930年代のアルゼンチンにおける保守思想の復権の中で再評価の機運が生まれ、1982年の[[マルビナス戦争]]終結後にはアルゼンチン政府によって遺体は埋葬され、公式に再評価された。
 
現在のアルゼンチンではロサスの評価は二つに分かれる。一つは長らく公式の史観によって提示された、血に塗れた独裁者というものであり、もう一つは外国の干渉に耐えた偉大な愛国者といったものである。後者の立場は特に「ロシスモ」(Rosismo、ロサス主義)と呼ばれる。現行の20[[アルゼンチン・ペソ|ペソ]]紙幣には、ロサスの肖像が使用されている。