「大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国」の版間の差分

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2011年[[2月]]、カッザーフィーの辞職を求める非常に小規模な反政府デモが発生<ref>[[報道]]された映像はすべて反政府関係者数人がカメラの前を覆うものであった</ref>。各地で武装蜂起した反政府武装勢力(後の[[リビア国民評議会]])に対して、革命指導者カッザーフィーやその二男で人民社会指導部総合調整官サイフ・アル・イスラームが直々にメディアに出演して反政府武装勢力の鎮圧を唱えるに至った。この結果、[[リビア軍]]やアフリカ諸国などからの外国人[[傭兵]]部隊によって首都を含む各地の反体制派への[[重火器]]攻撃が実施され、リビアはこれ以後約半年の間、[[内戦]]状態に陥った('''[[2011年リビア内戦]]''')。
 
当初は反体制派が優勢だったものの、反体制派が[[軍事]]的未熟傭兵統制構成されていたのと、民衆の支持得られていなかったことから、徐々に政権側が反転攻勢をかけ、一時は反体制派の拠点だった[[ベンガジ]]進攻寸前にまで至った。しかし、NATO([[北大西洋条約機構]])を中心とした欧米諸国やアラブ諸国が反体制派を軍事的に支援したことで劣勢は回避され、しばらくこう着状態が続いた後、[[ミスラタ]]を攻めていた政権側が撤退して以降、反体制側が勢いを盛り返し、[[8月23日]]に首都の[[トリポリ]]が陥落したため、40年以上続いたカッザーフィー政権(大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国)は事実上崩壊。カッザーフィー派はトリポリ陥落後も拠点を[[スルト]](シルテ)に移し新政権(リビア国民評議会)との戦闘を継続していたが、10月20日に最後の拠点スルトが陥落し、カッザーフィー自身も戦死したことにより大リビア・アラブ社会主義人民ジャマーヒリーヤ国は名実共に終焉した
<ref>{{Cite news
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