「隅田川花火大会」の版間の差分

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両国川開きの花火は、[[明治維新]]や[[第二次世界大戦]]などにより数度中断した。[[1961年]]から[[1977年]]まで、交通事情の悪化や、隅田川の水質汚濁による臭害等により中断するが、[[1978年]]に現在の「隅田川花火大会」に名称を変えて復活し、以後毎年続けられている。
 
{{quotation|「'''両国の夏の納涼花火'''」
隅田川の夏の風物詩として知られる隅田川花火大会の歴史は、享保18年(1733)5月28日の両国川開きにまで溯る。大飢饉や疫病による死者供養と災厄除去を祈願して、花火師、6代目鍵屋弥兵衛が、花火を打ち上げたのが始まりだった。明治期には11代目鍵屋弥兵衛が、外国から輸入された新しい薬剤を使って赤、青などの発色花火の打ち上げに成功し、また、マニラから持ち帰ったスターマインを、初めて両国川開きで打ち上げた。明治30年(1897)8月には、見物客の重みで木橋の両国橋の欄干が落ち、多くの死傷者が出る大惨事が起きた。この事故を契機に両国橋は旧橋より上流に鉄橋で架けられた。打ち上げ花火、冠菊(しだれ柳)と両国橋(鉄橋)の絵あり。「昔両国の川開きは五月廿八日に限りたるも今は一定の日はなし花火を打上る前警察署の認可を得て後に執行と虽とも此納涼今に至るも東京名物の一なりと定む」と記載あり。50丁表に「江戸一流元祖南京 龍田〇〇ち 男山〇〇〇 むさしの〇〇 安部野らんきく 宮城野乃萩横山町壱丁目 花火せん香かきや弥兵衛」と記載がある花火師、鍵屋弥兵衛の広告あり。|清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「両国の夏の納涼花火」より抜粋<ref name="tokyomeibutsu-hyakunin">清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「両国の夏の納涼花火」国立国会図書館蔵書、2018年2月19日閲覧</ref>}}
 
毎年100万人近い人出が見込まれるこの大会は、桜橋下流から言問橋上流までの第1会場と、駒形橋下流から厩橋上流の第2会場合計で2万発以上の花火が打ち上がり、同時に、花火コンクールが行われる。