「張元至」の版間の差分
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{{基礎情報 武士
| 氏名 = 張
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] - [[安土桃山時代]]
| 生誕 = 不
| 死没 = [[慶長]]6年[[8月27日]]([[1601年]][[9月23日]])
| 改名 = 張思朝→張元至
| 別名 =
| 諡号 =
| 神号 =
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| 霊名 =
| 墓所 =
| 官位 = [[讃岐国#国司|讃岐
| 幕府 =
| 主君 = [[毛利輝元]]→[[毛利秀就|秀就]]
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| 妻 =
| 子 = '''[[張元貞|元貞]]'''、[[張元令|元令]]、[[張市郎左衛門|市郎左衛門]]
| 特記事項 =
}}
'''張 元至'''(ちょう げんし)は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]から[[安土桃山時代]]にかけての[[武将]]。[[毛利氏]]の家臣
== 生涯 ==
=== 輝元の出頭人 ===
[[永禄]]8年([[1565年]])に父の後を継ぐ。その後、[[佐世元嘉]]や[[二宮就辰]]と共に[[毛利輝元]]に近侍し、天正15年([[1587年]])に讃岐守を受領した。天正20年([[1592年]])から始まる[[文禄・慶長の役#文禄の役|文禄の役]]では輝元の側近として渡海しており、[[文禄]]2年([[1593年]])8月に帰国して以降、元至は佐世元嘉、二宮就辰、[[榎本元吉]]、[[堅田元慶]]と共に毛利氏の中央行政を担う
文禄4年([[1595年]])に輝元の子・[[毛利秀就]]が生まれ、[[慶長]]3年([[1598年]])に秀就が輝元の後継者として[[豊臣政権]]に公認されると、[[国司元蔵]]や[[児玉元経]]と
=== 張元至密通事件 ===
このように毛利氏の中枢で活躍した元至であったが、慶長6年([[1601年]])に秀就の乳母との密通を理由として、周防
慶長5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]に敗北したことで輝元の権威は低下したが、後継の秀就は幼少であるため、輝元に代わって当主となる人物もいないという、輝元の責任を追及できない状況にあって、豊臣政権下の輝元専制体制で領国支配から遠ざけられていた[[五奉行 (毛利氏)|五奉行]]系などの旧勢力は、輝元の専制体制を支えていた輝元出頭人を身代わりとした。中でも帰化人である元至はそれらの旧勢力との関係も乏しかったため、身代わりとするには最適であった。また、秀就に対する輝元出頭人の影響力を排除するためにも、元至の失脚が必要となり、密通事件が仕組まれることとなった。いずれにせよ、このような権力闘争によって秀就周辺から輝元出頭人が排除され、[[児玉氏]]と国司氏の五奉行系の家によって秀就の側近が独占されるようになる。
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* [[光成準治]]『ミネルヴァ日本評伝選 毛利輝元 ―西国の儀任せ置かるの由候―』([[ミネルヴァ書房]]、[[2016年]])
* 『[[閥閲録|萩藩閥閲録]]』巻78「張久左衛門」
{{DEFAULTSORT:ちよう けんし}}
[[Category:戦国武将]]
[[Category:切腹した人物]]▼
[[Category:16世紀生]]
[[Category:1601年没]]
▲[[Category:切腹した人物]]
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