「佐野元春」の版間の差分

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==概要==
1980年3月21日、シングル「[[アンジェリーナ (曲)|アンジェリーナ]]」で歌手デビュー。詩人としてのメッセージを内包した歌詞、多様なリズムとアレンジ、[[ラップ]]や[[スポークン・ワード|スポークンワーズ]]などの新しい手法を実践。また、[[すぎやまこういち]]作品に敬意を払ったうえで「[[すべてはこの夜に]]」を[[沢田研二]]に書き下ろした事もあり<ref name=sawada />、名実通りさまざまなジャンルの音楽を折衷させた曲を数多く発表して作品の商業的ヒットに関係なく高い評価を得ている。現在は独立系レーベル「[[Daisy Music]]」を主宰し、[[インターネット]]を通じた音楽活動などでも先駆的な試みを続けている。
 
== 経歴 ==
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立教高等学校(現・[[立教新座中学校・高等学校|立教新座高等学校]])1年の夏に[[ボブ・ディラン]]を知り、強い影響を受ける。ディランが影響を受けた文学を探っているうちに[[ジャック・ケルアック]]を知り、ビート・ジェネレーションに傾倒。15の時の3大ヒーローはボブ・ディラン、[[J・D・サリンジャー]]、ジャック・ケルアックだったという。高校2年になってようやく音楽部に入部、ピアノを始める。この頃、吉祥寺の「ジョージ組」なるバイク集団に所属<ref name="shimomura"/>、この時期に無謀運転で2回交通事故を起こしている<ref>月刊カドカワ 1991年5月 矢野顕子からの質問に答えて</ref>。高校3年の7月、実家の引っ越しに同行せず一人暮らしを始め、夏休みに横浜で出会ったモダン・ダンサーに強い影響を受ける<ref name="shimomura"/>。同年12月、音楽部が母体のバンド「バックレイン元春セクション」を結成。結成当時は5人編成だったが、まもなく同級生の妹である[[MANNA (歌手)|MANNA]]が加入し、6人編成になる<ref name="shimomura"/>。
 
なお、学生時代に制作された楽曲のいくつかは<ref>「[[BACK TO THE STREET|情けない週末]]」「グッドバイからはじめよう」「[[君がいなくちゃ]]」など。</ref>プロになってから正式に発表されている。
 
1974年4月に[[立教大学]][[社会学部]]に入学。バックレイン元春セクションの活動は続き、初夏に[[ヤマハポピュラーソングコンテスト]]に応募する際にホーンセクションが4人加入。ボーカル・ピアノ(佐野)、キーボード(MANNA)、ツインギター、ドラム、ベース、ホーンセクションという10人編成の大所帯バンドになる<ref name="shimomura"/>。ポプコンでは「Bye Bye C-Boy」を歌い[[杉真理]]らを抑えて関東・甲信越地区代表になるが10月の本選会では無冠で、同時にバンドの維持が不可能になったために解散(一説には主催者を誹謗する発言をしたためにノミネートから外されたと言われている)。同年11月に[[慶應義塾大学]]の学園祭のミニコンサートに出演した時に[[佐藤奈々子]]と知り会い、彼女にボブ・ディランを聞かせるなどの音楽的教育を施す。この時期に全くの別メンバーでバックレイン元春セクションを再度立ち上げようとしたが、[[ハイ・ファイ・セット]]にドラムとベースを引き抜かれた<ref name="shimomura"/>ことをきっかけに自然消滅し、翌1975年冬からは佐藤と共に音楽活動を始める。同年末に佐藤が大学主催の女性シンガーソングライターのコンテストに出場した際に「鋼渡り」という曲を共作し、翌1976年3月に優秀賞を受賞<ref>[http://www.moment.gr.jp/9/interview.html moment 佐藤奈々子インタビュー]</ref>。同年秋に佐藤のデビューが決まってからは自身の音楽活動の他、佐藤の裏方としてプロデュース・マネージメント活動を行う<ref name="shimomura"/>。1977年、佐藤奈々子のアルバム『Funny Walkin'』、『Sweet Swingin'』にも参加。この時期、佐藤の所属事務所の代表小坂ペン([[小坂忠]]夫人)の紹介で小坂忠と知り合い、CM音楽の録音、[[ブレッド&バター]]のテレビライプでのコーラス、「[[元祖ムキムキマン|ムキムキマンのエンゼル体操]]」の録音(キーボードで参加)などを手伝う<ref name="shimomura"/>。
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10月29日、アルバム『VISITORS』リリース30周年を記念したスペシャルエディション「VISITORS DELUXE EDITION」発売。
 
2015年3月4日には、学生時代に制作されかねてから一部で注目されていた「[[君がいなくちゃ]]」が正式に発表され、[[iTunes]]ロックチャートで1位を獲得し<ref name = rockchart>[http://www.moto.co.jp/DMSNP-010/#undefined 『境界線』ライナーノーツ 2015年4月10日 DaisyMusic]</ref>、年末には[[桑田佳祐]]にラジオ番組で絶賛されている<ref>[http://japan.techinsight.jp/2015/12/kuwata-hougaku-best20-26.html 【エンタがビタミン♪】桑田佳祐が選ぶ2015年邦楽シングルBEST20、桐谷健太『海の声』に「泣いた」 ] 2015年12月27日 [[Techinsight]]</ref>。
 
同年には[[読売新聞社]]から要請を受けて制作されたCMソング「境界線」や<ref name = rockchart />、[[キヤノン]]「EOS 8000D」オリジナル連続Webドラマ「遠まわりしようよ、と少年が言った。」のために書き下ろした「私の人生」(翌年に配信限定で正式に発売されたEP「或る秋の日」の収録曲)<ref name="zinsei" />が発表された。
 
=== 35周年アニバーサリー ===
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8月10日に東京国際フォーラム ホールAで開催された「THIS! 2016」では前年に成立した改正公職選挙法に伴い、[[日本の選挙#選挙権|選挙権]]年齢が20歳以上から18歳以上に引き下げられることになった事を祝し、18歳と19歳の者を対象に、開場前に受付窓口に行き、年齢を証明する身分証明書(免許証、学生証、保険証など)を提示することで、チケット代の8200円が無料になる「祝!18歳選挙権」という制度を導入。すでにチケットを購入済みの18歳と19歳の者は、当日受付窓口で料金が全額キャッシュバックされた。
 
=== アフター35周年の活動 ===
2017年4月、[[ニューヨーク]]を訪れアート・イヴェント『Not Yet Free』を開き、スポークンワーズを披露した。また、この模様は2017年5月28日にNHK BSプレミアムで「佐野元春ニューヨーク旅『Not Yet Free -何が俺たちを狂わせるのか』と題して放送された<ref name=New />。
 
== 特徴・エピソード ==
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また、自身の楽曲やアルバムの作り方について「「僕は悲しいので、こんな思いをみんな聴いて、同情して」みたいな曲は、僕は絶対に歌わない。“私の歌”、“僕の歌”というのは、一切書いてこなかった。“私”が主体じゃなくて、“私たち”が主体の音楽を上手く書けたらいいなと、ずっと思いながら続けてきました。本当のことを言うと、曲を書く時に、僕が個人的に言いたいことは、何もない」「その時代、その時代の、僕の新聞のようなもの」「曲のタイトルがヘッドライン」「僕の思いを入れない方が、上手くいくわけです」「自分の曲を歌って、自分自身がエキサイトするものでなければ、大抵は駄作だなって思っている。だいたい、僕なんかより、もっと感受性の強い人たちが聴いてくれているんだから、リスナーを絶対に見くびったりはしないし、いつも恐る恐る「大丈夫かな?」と思いながらソングライティングしています」「だから、客観的な表現になるんだろうね」「僕のような風来坊が考えていることなんて、どうでもいいことなんです(笑)」と述べている<ref name=sano />。
 
実体験に基づいて作詞しているのかと聞かれることもあるというが、本人によると「100%自分の事を歌った詩はひとつもない」といい、「そういう意味では自分は作家なんだなと思います」と述べている。事実、前述したとおり佐野の楽曲には学生時代に書かれた楽曲<ref>「[[BACK TO THE STREET|情けない週末]]」「グッドバイからはじめよう」「[[君がいなくちゃ]]」など。</ref>がプロになってから正式に発表されたケースも存在している<ref>[http://special.leon.jp/interview/02/?page=2 ミュージシャン 佐野元春インタビュー | 著名人 | LEON.JP] LEON.JP</ref>。
 
発表の有無を問わず、午前中には楽器を弾いたり作詞・作曲をしているという。また、ストックは100曲以上に及ぶといい、曰く「インストゥルメンタルの曲だったら毎日できる。難しいのは言葉付きの音楽。言葉がないんだったら、いくらでも出てきます」という<ref>[https://www.nikkansports.com/entertainment/news/1886119.html 短髪に8キロ減の佐野元春、呼吸するように音楽語る] 日刊スポーツ 2017年9月11日11時1分 紙面から</ref>。
 
; スポークン・ワー
日本ではメイン・ストリームではあまり浸透していない[[スポークン・ワード|スポークンワーズ]]にも積極的に取り組んでおり、佐野は自身がスポークンワーをやる理由を「パフォーマーがどの国籍に属していようと一定の理解が得られるはずだという確信のもと、それを試してみました」「僕は自分の母国の言葉に誇りをもっています。母国語でスポークンワーズすることが、自分にとってはとても大事です。原語の理解を超えて、他の文化圏の人に通じるものがあるはずだ、という確信がどこから生まれるかといえば、それは母国語に対する信頼にあると思います」<ref name=New>[https://www.moto.co.jp/notyetfree/interview/ 2017年のBeat-itude -佐野元春、ニューヨークを往く]Moto's Web Server</ref>と述べている。
 
; その他
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| 境界線
| [[読売新聞社]]「[[読売新聞]]」CMソング<ref>公式サイトによると、[[読売新聞社]]から要請を受けて制作されたという。</ref>
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| 私の人生
|[[キヤノン]]「EOS 8000D」オリジナル連続Webドラマ「遠まわりしようよ、と少年が言った。」主題歌<ref name="zinsei">[http://cweb.canon.jp/eos/special/8000d/drama/ 連続Webドラマ「遠まわりしようよ、と少年が言った。」]キヤノン</ref>
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