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幼い頃に、智積が仏典を学ばせようとしたが、陸羽は、「跡継ぎがなければ、孝といえるでしょうか」と言い、固く儒教を学ぼうとした。そのため、智積は陸羽に、牧牛などの苦役を課した。ひそかに、竹で牛の背中に字を書いていたという。
 
逃亡して、役者の一座に入り、諧謔ものを書き上げた。[[天宝 (唐)|天宝]]年間に、竟陵([[:zh:竟陵郡|zh竟陵]])の長官李斉物(りせいぶつ)([[:zh:李物|zh]])の目に止まり、書を教えられ学問を学んだ。孤児であった陸羽が、知的階級の人々と交流するきっかけをつくってくれたのが、李斉物であった。その後、竟陵[[司馬]]の崔国輔(さいこくほ)([[:zh:崔國輔|zh]])とも交わった。友人と宴会中、思うところがあると出ていき、約束は、雨、雪の日、虎狼の出現に構わずに守ったという。また、『精行倹徳の人』を理想とした。
 
[[756年]]([[至徳 (唐)|至徳]]元年)、[[安禄山の乱]]を避けようと北方の知識人たちは、江南地方へ逃れた。陸羽も[[760年]]([[上元 (唐粛宗)|上元]]元年)の頃、湖州(現在の[[浙江省]][[湖州市]])に避難。庵(いおり)をつくって隠居し、桑苧翁と号し著書を書き出した。僧の釈皓然と親交を結び、野を一人で歩いて回ったという。隠居中に、朝廷から太子文学や太常寺太祝に任命されたが、辞退した。14年の茶の研究を『茶経』にまとめ、10年後に[[780年]]([[建中 (唐)|建中]]元年)に補足をつけた『茶経』3巻を著す。