「文帝 (漢)」の版間の差分

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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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[[紀元前180年]]に呂雉が崩御すると、呂氏一族は[[周勃]]、[[陳平]]ら建国の元勲、および高祖の孫である斉王[[劉襄]]、朱虚侯[[劉章]]による政変で誅滅され、劉恒が新皇帝として擁立されることとなった。
 
政変を実行した劉襄と劉章兄弟は、劉邦の[[庶子|庶長子とされる]]の悼恵王[[劉肥]]の遺児であり、呂氏一族誅滅の功績から劉襄が皇帝に即位し、劉章は斉王に封じられると思われた。しかし呂氏一族という強大な[[外戚]]による専横を排した直後であり、強い権力欲を有する外戚を持つ斉王を皇帝に擁立すれば、再び外戚の専横が発生するという危惧が挙がった。そこで、生母が没落貴族の末裔で、権力欲が少なく人格者との評判の高い劉恒が擁立された。また、劉恒は生存する高祖の遺児の最年長者であり、長幼の順という理由も説得力も有していた。
 
しかし劉恒の皇帝即位に、代国から反対の声が上がった。高祖とともに戦乱の世を生き抜き、政変を起こして呂氏一族のみならず皇帝まで廃立、殺害した元勲を信用できないというものであった。皇帝即位を求める使者が[[長安]]と代国とを往復すること5度に及び、ようやく即位が実現した。即位の際に代国から長安へ上京する際、劉恒の皇帝即位に対する反対派が多くいたが、わずかに数名の側近と6騎の馬車のみで長安に入った。