「ハイレ・セラシエ1世」の版間の差分

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=== 退位・死去 ===
[[1974年]]には皇帝自身による不正が発覚するなど、国内におけるカリスマ性は地に堕ち、同年2月には軍が反乱を起こし、帝政打倒の声が高まった。皇帝は[[{{仮リンク|エンデルカチュ・マコンネン]]|en|Endelkachew Makonnen}}を首相に任命し、[[立憲君主制]]への移行や土地改革などを公約するが、時すでに遅く、民衆による[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]、デモ、若手将校を中心とする改革集団「軍部調整委員会」の成立、軍部による政府要人の拘束などが公然と行われた。
 
そんな騒然とした雰囲気の1974年[[9月2日]]早朝、皇帝はアディスアベバの宮殿内で[[陸軍]]のクーデターにより逮捕・廃位され、拘禁中の[[1975年]]に暗殺(犯人は[[メンギスツ・ハイレ・マリアム|メンギスツ]]という説もある。また、[[1997年]]にエチオピア当局は廃位直後に射殺されたと発表)された。