「大日本帝国憲法」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
63行目:
 
=== 制定までの経緯 ===
[[1882年]](明治15年)3月、「在廷臣僚」として、[[参議]]・[[伊藤博文]]らは政府の命をうけて[[ヨーロッパ]]に渡り、[[ドイツ]]系[[立憲主義]]の理論と実際について調査を始めた。伊藤は、[[ベルリン大学]]の[[ルドルフ・フォン・グナイスト]]、[[ウィーン大学]]の[[ロレンツ・フォン・シュタイン]]の両学者から、「[[憲法]]はその国の[[歴史]]・[[伝統]]・[[文化]]に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようというからには、まず、その国の歴史を勉強せよ」というアドバイス助言をうけた。その結果、[[プロイセン]] ([[ドイツ]])の憲法体制が最も日本に適すると信ずるに至った(ただし、伊藤はプロイセン式を過度に評価する[[井上毅]]をたしなめるなど、そのままの移入を考慮していたわけではない)。伊藤自身が本国に送った手紙では、グナイストは極右で付き合いきれないが、シュタインは自分に合った人物だと評している。翌[[1883年]](明治16年)に伊藤らは帰国し、井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法取調局(翌年、制度取調局に改称)を設置するなど憲法制定と議会開設の準備を進めた。
 
[[1885年]](明治18年)には[[太政官|太政官制]]を廃止して'''[[内閣 (日本)|内閣制度]]'''が創設され、[[伊藤博文]]が初代[[内閣総理大臣]](首相)となった。井上は、政府の法律顧問であったドイツ人・[[ロエスレル]](ロェスラー、Karl Friedrich Hermann Roesler)や[[アルバート・モッセ]](Albert Mosse)などの助言を得て起草作業を行い、[[1887年]](明治20年)5月に憲法草案を書き上げた。この草案を元に、夏島([[神奈川県]][[横須賀市]])にある伊藤の別荘で、伊藤、井上、[[伊東巳代治]]、[[金子堅太郎]]らが検討を重ね、夏島草案をまとめた。当初は東京で編集作業を行っていたが、伊藤が首相であったことからその業務に時間を割くことになってしまいスムーズな編集作業が出来なくなったことから、[[金沢区|相州金沢]](現:[[神奈川県]][[横浜市]][[金沢区]])の東屋旅館に移り作業を継続する。しかし、メンバーが[[横浜市|横浜]]へ外出している合間に書類を入れたカバンが盗まれる事件が発生<ref group="注釈">民権派の犯行も疑われたが、見つかったカバンからは金品のみなくなっていたことから[[空き巣]]であったとされる。</ref>。そのため最終的には夏島に移っての作業になった。その後、夏島草案に修正が加えられ、[[1888年]](明治21年)4月に成案をまとめた。その直後、伊藤は天皇の諮問機関として[[枢密院 (日本)|枢密院]]を設置し、自ら議長となってこの憲法草案の審議を行った。枢密院での審議は[[1889年]](明治22年)1月に結了した。
69行目:
[[1889年]](明治22年)[[2月11日]]、[[明治天皇]]より「'''大日本憲法発布の[[詔勅]]'''」<ref>柴田勇之助 編、「大日本憲法發布の詔勅」『明治詔勅全集』、p26-27、1907年、皇道館事務所。[{{NDLDC|759508/34}}]</ref>が出されるとともに'''大日本帝国憲法'''が発布され、国民に公表された。この憲法は[[天皇]]が[[黒田清隆]]首相に手渡すという[[欽定憲法]]の形で発布され、日本は[[東アジア]]で初めて[[近代憲法]]を有する[[立憲君主制|立憲君主国家]]となった。また、同時に、皇室の家法である[[皇室典範]]も定められた。また、[[議院法]]、貴族院令、衆議院議員選挙法、[[会計法]]なども同時に定められた。大日本帝国憲法は[[第1回衆議院議員総選挙]]実施後の第1回[[帝国議会]]が開会された[[1890年]](明治23年)[[11月29日]]に施行された。
 
国民は憲法の内容が発表される前から憲法発布に沸き立ち、至る所に奉祝門やイルミネーションが飾られ、提灯行列も催された。当時の自由民権家や新聞各紙も同様に大日本帝国憲法を高く評価し、憲法発布を祝った<ref group="注釈">制定の過程において新聞紙上及び民権運動家から様々な批判があったにもかかわらず、発布に際しては国を挙げた奉祝ムードにあったことを、当時、[[東京大学]]医学部で教鞭を執っていた[[ベルツ]]が記している(『ベルツの日記』)。</ref>。自由民権家の[[高田早苗]]は「聞きしに優る良憲法」と高く評価した。また、[[福澤諭吉]]は主宰する『[[時事新報]]』の紙上で、「国乱」によらない憲法の発布と国会開設を驚き、好意を持って受け止めつつ、「そもそも西洋諸国に行るる国会の起源またはその沿革を尋ぬるに、政府と人民相対し、人民の知力ようやく増進して君上の圧制を厭、またこれに抵抗すべき実力を生じ、いやしくも政府をして民心を得さる限りは内治外交ともに意のごとくならざるより、やむを得ずして次第次第に政権を分与したることなれども、今の日本にはかかる人民あることなし」として、人民の精神の自立を伴わない憲法発布や政治参加に不安を抱いている。[[中江兆民]]もまた、「我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや」と書生の[[幸徳秋水]]に溜息をついている。
 
=== 制定後の出来事 ===