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[[後陽成天皇]]の第三皇子。母は、[[関白]][[太政大臣]]・[[豊臣秀吉]]の猶子で後陽成[[女御]]の中和門院・[[近衛前子]]。
 
* [[中宮]]:[[徳川和子]](東福門院)(1607-1678)
** 第二皇女:興子内親王([[明正天皇]])(1623-1696)
** 第三皇女:[[女二宮 (後水尾天皇皇女)|女二宮]]<ref group="注釈">『[[本朝皇胤紹運録]]』などには名を昭子内親王と記しているが、女二宮に内親王宣下がなされたという記録はなく、女三宮との混乱であると考えられている(久保、『徳川和子』p.102)</ref>(1625-1651、秋月院妙澄大師)‐[[近衛尚嗣]]室
** 第二皇子:[[高仁親王]](1626-1628)
** 第三皇子:若宮(1628)
** 第四皇女:女三宮[[昭子内親王]](顕子内親王)(1629-1675)
** 第六皇女:女五宮[[賀子内親王]](1632-1696) - [[二条光平]]室
** 第七皇女:菊宮(1633-1634)
* [[典侍]]:[[四辻与津子]](?-1638)
** 第一皇子:[[賀茂宮]](1618-1622)
** 第一皇女:[[文智女王]](1619-1697)
* 典侍:[[園光子]](壬生院)(1602-1656)
** 第四皇子:紹仁親王([[後光明天皇]])(1633-1654)
** 第六皇子:[[守澄法親王]](1634-1680) - 初代[[輪王寺]]宮門跡、179代[[天台座主]]
** 第十皇女:[[元昌女王]](1637-1662)
** 第十一皇女:[[宗澄女王]](1639-1678)
** 第十三皇女:桂宮(1641-1644)
* 典侍:[[櫛笥隆子]](逢春門院)(1604-1685)
** 第五皇女:[[理昌女王]](1631-1656) - [[宝鏡寺]]宮門跡
** 第五皇子:某(1633)
** 第八皇女:[[光子内親王]](1634-1727)
** 第八皇子:良仁親王([[後西天皇]])(1637-1685)
** 第九皇子:[[性真法親王]](1639-1696) - [[大覚寺]]宮門跡、[[東寺長者]]
** 第十二皇女:摩佐宮(1640-1641)
** 第十四皇女:[[理忠女王]](1641-1689)
** 第十一皇子:[[穏仁親王]](第3代[[桂宮|八条宮]])(1643-1665)
** 第十三皇子:[[道寛法親王]](1647-1676) - [[聖護院]]宮門跡、[[天台寺門宗#歴代長吏|園城寺長吏]]
* 典侍:[[園国子]](新広義門院)(1624-1677)
** 第十皇子:[[尭恕法親王]](1640-1695)- 181・184・187代天台座主
** 第十五皇女:[[常子内親王]](1642-1702)‐[[近衛基熙]]室、[[徳川家宣]][[御台所]][[近衛熙子]]の母
** 第十四皇子:[[眞敬法親王]](1649-1706) - [[一乗院]]宮門跡、[[興福寺]][[別当#寺院における「別当」|別当]]
** 第十六皇子:[[尊證法親王]](1651-1694)- 182・185代天台座主
** 第十九皇子:識仁親王([[霊元天皇]])(1654-1732)
** 第十七皇女:[[永享女王]](1657-1686)
* 典侍:[[四辻継子]](権中納言局)(?-1657) - [[四辻季継]]の娘
** 第十二皇子:[[尊光法親王]](1645-1680) - 徳川家光[[猶子]]・[[知恩院]]宮門跡
** 第十八皇子:[[盛胤法親王]](1651-1680)- 183・186代天台座主
** 第十六皇女:[[文察女王]](1654-1683)
* [[宮人]]:[[水無瀬氏子]](帥局)(1607-1672) - [[水無瀬氏成]]の娘
** 第九皇女:新宮(1635-1637)
** 第七皇子:[[性承法親王]](1637-1678) - [[仁和寺門跡一覧|仁和寺御室]]
 
=== 系図 ===
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{{出典の明記|date=2016年9月|section=1}}
[[ファイル:Callirgaphy by Emperor GoMizunoo.JPG|thumb|200px|後水尾天皇 雅歌 色紙]]
後陽成天皇はかねてから<!--[[豊臣秀吉]]の意向で儲君に立てられた-->第1皇子・良仁親王([[覚深入道親王]])を廃して、<!-- 秀吉の[[猶子]]でもあった -->弟宮の[[八条宮智仁親王]]を立てる事を望んでいた。だが、[[関ヶ原の戦い]]によって新たに権力の座を手に入れた[[徳川家康]]もまた[[皇位継承]]に介入し、良仁親王の[[出家]](皇位継承からの排除)は認めるものの、これに替わる次期天皇として嫡出男子<!--(母の[[近衛前子]]の父は[[近衛前久]]で猶父は豊臣秀吉。)-->であった第3皇子の政仁親王の擁立を求めた。最終的に後陽成天皇はこれを受け入れたものの、結果的には自己の希望に反して家康の意向によって立てられた政仁親王に対しても良仁親王と同様に冷淡な態度を取るようになった。
 
[[慶長]]16年([[1611年]])[[3月27日 (旧暦)|3月27日]]に後陽成天皇から譲位され践祚。[[4月12日 (旧暦)|4月12日]]に[[即位の礼]]を行う。だが、父・後陽成上皇との不仲はその後も続き、[[天海]]や[[板倉勝重]]の仲裁にも関わらず不仲は上皇の死まで続いた。
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以後、[[霊元天皇]]までの4代の天皇の後見人として[[院政]]を行う。当初は院政を認めなかった幕府も寛永11年([[1634年]])の将軍・徳川家光の[[上洛]]をきっかけに認めることになる<ref>[[九条道房]]の日記 『道房公記』 寛永14年12月3日条</ref>。その後も上皇(後に法皇)と幕府との確執が続く。また、東福門院(和子)に対する配慮から[[後光明天皇|後光明]]・[[後西天皇|後西]]・霊元の3天皇の生母([[園光子]]・[[櫛笥隆子]]・[[園国子]])に対する[[女院]]号贈呈が死の間際(園光子の場合は後光明天皇崩御直後)に行われ、その父親([[園基任]]・[[櫛笥隆致]]・[[園基音]])への贈位贈官も極秘に行われるなど、幕府の朝廷に対する公然・非公然の圧力が続いたとも言われている。その一方で、本来は禁中外の存在である「院政の否定」を対朝廷の基本政策としてきた幕府が後水尾上皇(法皇)の院政を認めざるを得なかった背景には徳川家光の朝廷との協調姿勢<ref group="注釈">[[野村玄]]は徳川家の当主が秀忠(大御所)から家光(将軍)に代わったことで協調政策に転じるとともに、明正天皇(幼少の女帝)の登場による朝廷内の混乱の責任を後水尾上皇(問題を起こした当事者)に負わせようとしたことを指摘している(野村、2006年、p.296-298ほか)。</ref>とともに東福門院が夫の政治方針に理解を示し、その院政を擁護したからでもある。晩年になり霊元天皇が成長し、天皇の若年ゆえの浅慮や不行跡が問題視されるようになると、法皇が天皇や近臣達を抑制して幕府がそれを支援する動きもみられるようになる。法皇の主導で天皇の下に設置された御側衆(後の[[議奏]])に対して[[延宝]]7年([[1679年]])に幕府からの役料支給が実施されたのはその代表的な例である。
 
延宝8年([[1680年]])に85歳の長寿で崩御し、[[泉涌寺]]内の月輪陵(つきのわのみささぎ)に葬られた。なお[[京都市]][[上京区]]の[[相国寺]]境内には後水尾天皇の毛髪や歯を納めた、後水尾天皇髪歯塚が現存する。[[昭和]]60年([[1985年]])[[7月12日]]までは歴代最長寿の天皇でもあった。記録を抜いた[[昭和天皇]]は、「後水尾天皇の時は平均寿命が短く、後水尾天皇の方が立派な記録です」とコメントしている。
 
[[日光東照宮]]には陽明門をはじめ各所に後水尾天皇の御親筆とされる額が掲げられており、後に[[板垣退助]]が強硬に日光東照宮の焼き討ちを要求する[[薩摩藩]]を説得する理由の1つとして挙げたとされる。
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* 勅撰和歌集である「類題和歌集」の編纂を臣下に命じた。
* 学問を好み、『伊勢物語御抄』の著作がある。
* [[性行為|女性]]関係は派手であった。禁中法度を無視し宮中に[[遊女]]を招きいれたり、[[遊郭]]にまでおしのびで出かけた。譲位後にも[[中宮]]以外の女性に30余人の子を産ませ、56歳で[[出家]]した後も精力や欲求は衰えず、58歳で後の霊元天皇を産ませている。
 
== 在位中の元号 ==
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== 御集 ==
* 鈴木健一・久保田淳(監修) 『後水尾院御集』(明治書院、[[和歌文学大系]]、2003年) ISBN 4625413176
 
=== 史料 ===
* [[宮内省]]図書寮編 『後水尾天皇実録 (1~3巻)』(復刻:[[ゆまに書房]]、2005年) ISBN 4-8433-2027-7-戦前期に編纂した編年体の事蹟。
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== 後水尾天皇を題材とした作品 ==
===小説===
* [[隆慶一郎]] 『花と火の帝』([[講談社文庫]]上下巻、1993年 ISBN 978-4061854956/ISBN 978-4061854963、[[日経文芸文庫]]上下巻、2013年 ISBN 978-4532280017/ISBN 978-4532280024) - 作者死去のため未完
 
=== 戯曲 ===
* [[植田紳爾]] 『花供養』([[宝塚歌劇団]]作品、同劇団では珍しい[[ストレートプレイ]]作品)
:: 初演は1984年、後水尾天皇・[[春日野八千代]]主演のほか[[神代錦]]、[[榛名由梨]]ら[[専科 (宝塚歌劇)|専科]]生徒を中心に[[宝塚バウホール]]で上演
:: 再演は2004年、後水尾帝・[[轟悠]](専科)主演のほか[[音月桂]]、[[白羽ゆり]]ら[[雪組 (宝塚歌劇)|雪組]]を中心に[[日生劇場]]で上演
 
== 後水尾天皇を演じた俳優 ==
* [[大場泰正]] ([[大河ドラマ]] 『[[葵 徳川三代]]』・2000年、[[日本放送協会|NHK]])
* [[柴田善行]] (『[[大奥 (フジテレビの時代劇)#2004年版『大奥〜第一章〜』|大奥]]』・2005年4月8日、[[フジテレビジョン|フジテレビ]])
 
== 脚注 ==