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オクヤマ (会話 | 投稿記録)
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[[1129年]]に、高宗の政策に反対する[[李綱]]ら武断派の重臣たちの圧力によって、わずか3歳で父からいったん譲位された。だが、[[秦檜]]・[[張浚]]ら文治派の家臣たちの猛反対で元の太子に戻った。
 
『[[宋史]]』によると、彼は病弱で、この年の秋7月にわずか3歳で[[夭折]]した。その時の父・高宗の悲しみは尋常でなく、数日間は涙が溢れ出して慟哭を繰り返していたという。また、乳母と用人がこのために誅殺された。
 
高宗の男子は他になく、[[趙匡胤|太祖]]の第3子・[[趙徳芳]]の末裔という遠縁の趙{{lang|zh|眘}}([[孝宗 (宋)|孝宗]])を養嗣子に迎えた。