「島添大里城」の版間の差分

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== 歴史 ==
島尻地域の東半分を支配下においた島添大里按司<ref name="hozon">[http://www.city.nanjo.okinawa.jp/shisei/culture/%E5%B3%B6%E6%B7%BB%E5%A4%A7%E9%87%8C%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E4%BF%9D%E5%AD%98%E7%AE%A1%E7%90%86%E8%A8%88%E7%94%BB%E6%9B%B8.pdf - (PDF)沖縄県南城市教育委員会 「島添大里城跡保存管理計画書」2014年]</ref>の居城であったが、佐敷グスクにあった[[尚巴志王|尚巴志]]によって1402年<ref>『沖縄県大百科事典』第3巻、84頁</ref>に落城し、以後は第一尚氏の勢力圏に入った。尚氏時代は離宮として少なくとも15世紀中ごろまで使用されていた。[[首里城]]と並ぶ壮麗な宮殿であったという。[[1683年]]には清の冊封使が廃城した大里城を訪れている。[[南山王国]]国王の居城<ref>『[[中山世鑑]]』の記述に基づく。島添大里按司を大里按司(南山国王)と同一視する。この説の場合、1402年の落城後の動向も諸説紛糾している(南山王国滅亡説・首府移動説・尚氏乗っ取り説など)。(『日本城郭大系』第2巻、305頁)</ref>とされるグスクの一つ。他に[[南山城 (琉球国)|南山城]]([[島尻大里城]])説があ<ref>『[[中山世譜]]』(蔡温本)が始めに主張。かつては蔡温本の島尻大里城が居城説が通説であったが、1970年代以降異論が出た(『沖縄県大百科事典』第3巻、84頁)。三山統一前後の見解は定まっていない。(梅木哲人『新琉球国の歴史』2013年、25頁)</ref>、見解が分かれている。<ref name="ni">『[[日本城郭大系]]』第2巻、新人物往来社、1980年、305頁。</ref>
</ref>
 
[[沖縄戦]]では城内に陣地が置かれて建築資材に城壁が転用され、米軍の攻撃も相まって、大きな被害を受けた。戦後も復興資材に使われた結果、大半の遺跡は消失した。[[1961年]]に米軍の資材供与を受け公園事業として展望台やコンクリート道が整備され、その後私設のグスク公園(のち営業終了して大里村の公園になる)が建設され、島尻地域唯一のレクリエーション施設として賑わったが、城跡は一部改変された。平成2年度から発掘調査が始まり、戦後の公園事業の構造物を撤去しながら整備が進んだ<ref name="hozon"/>。2012年1月には国の指定史跡となった<ref name=shimpo2011 /><ref name="nanjo navi" />。
城郭は漁港である[[糸満]]および農村である[[大里村 (沖縄県)|大里]]近くの丘の上にあった。その丘の麓には小さな登り口があり、許可された商船と直取引を行っていた<ref name=kerr1959>Kerr, George H. ''Okinawa, The History of an Island People'', Second Printing, Charles E. Tuttle Company, Tokyo, 1959, p. 60</ref>。
 
1950年代には城趾に小学校が建設され<ref name=kerr1959 />、2012年1月には国の指定史跡となった<ref name=shimpo2011 /><ref name="nanjo navi" />。
 
== 脚注 ==