「ヘンリー5世 (イングランド王)」の版間の差分

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1415年[[8月11日]]にフランスに向けて出航したヘンリー5世のイングランド軍は、[[8月12日]]に北フランスに上陸し、{{仮リンク|アルフルール|en|Harfleur}}(現[[セーヌ=マリティーム県]])要塞を包囲し、[[9月22日]]にはこれを陥落した({{仮リンク|アルフルール包囲戦|en|Siege of Harfleur}})。予想以上に長引いた包囲戦で疾病・負傷者が増えたイングランド軍は、補給可能な[[カレー (フランス)|カレー港]]に陸路移動を開始した。これを追撃しようとするアルマニャック派を中心とするフランス軍を10月25日の[[アジャンクールの戦い]]で撃破し、多くのフランス貴族を捕虜とした。ブルゴーニュ派からの攻撃はなくイングランド軍は11月に帰国、[[ロンドン]]で凱旋した。
 
アジャンクールの戦いでアルマニャック派の幹部は戦死するか捕虜となり、彼らは過酷に扱われ長期間イングランドに幽閉された。この中に[[オルレアン公]][[シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公)|シャルル]]と[[アルテュール3世 (ブルターニュ公)|アルテュール・ド・リッシュモン]]などがおり、ヘンリー5世が死ぬか、長い年月を経た末でなければ釈放されなかった。また、ヘンリー5世は継母(父の後妻)でリッシュモンの実母[[ジョーン・オブ・ナヴァール]]に対しても邪険に扱ったとされる<ref>森、P207 - P209、エチュヴェリー、P87 - P97、佐藤、P128 - P130、城戸、P121 - P122、ロイル、P130 - P137、君塚、P160 - P161。</ref><ref group="注">しかしこれには異説もあり、ヘンリー5世は反対に継母を敬い、年金を提供したり留守中のイングランドを任せていたという。邪険にしていたのは弟のベッドフォード公の方で、1419年にジョーンをヘンリー5世呪詛の罪で捕らえたが、ヘンリー5世の命令で釈放されたジョーンは1437年に亡くなるまで王家に厚遇された。石井、P246 - P248。</ref>。
 
==== 外交と制海権 ====
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* [[森護]]『英国王室史話』[[大修館書店]]、1986年。
* [[ジャン=ポール・エチュヴェリー]]著、[[大谷暢順]]訳『百年戦争とリッシュモン大元帥』[[河出書房新社]]、1991年。
* [[石井美樹子]]『イギリス 王妃たちの物語』[[朝日新聞社]]、1997年。
* [[佐藤賢一]]『英仏百年戦争』[[集英社新書]]、2003年。
* [[城戸毅]]『百年戦争―<small>中世末期の英仏関係</small>―』[[刀水書房]]、2010年。