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=== 政治 ===
* 光政は[[承応]]3年([[1645年]])に諌箱を設置した。これは家臣からの諫言を受け入れるためのものである<ref>谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)、1987年、P81</ref>。
* 光政の財政政策は一貫して倹約であり、本人も質素な衣服を用いたりしたが、それを示す逸話が多い(ただし光政を名君として誇張の可能性あり)。次男の政言がビロードの傘袋を供の者に持たせているのを見て「大国を領する人の傘にや、他所の者にてあるべし。我らが行列に混雑致さざるように」と注意した。このため政言はその夜に傘袋を取り替えたという<ref>谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)1987)、1987。P102、P102</ref>。3男の輝録が無断で分限に過ぎる長屋を普請した際には怒って数日の間対面を許さなかった。輝録は父の怒りを知って質素なものに作り変えた<ref>谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)1987)、1987。P82、P82</ref>。しかしどれだけ倹約しても幕命による手伝いや経費などで出費が重なり、岡山財政は承応3年の時点で銀3526貫目の赤字で、家臣の俸禄を下げたり借財して補った。しかし百姓に負担を強いたりすることはほとんどなく、年貢を上げることもわずかだったという<ref>谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)、1987年、P107</ref>。
* 光政は農政に関する逸話も多い。ある年、[[赤坂郡]]で狩をしたあと郡内を巡視したが、このとき百姓を集めて芋の栽培を奨励したという。また巡視の際、稲の品種について郡奉行に訊ねたが、郡奉行は答えることができず、学問に精通していた光政は品種を見抜いて百姓に尋ねると、百姓はそのとおりと答えた。光政は品種も知らない奉行<ref group="注釈">「稲の名も知らぬ郡奉行、百姓を養ふ事危事也」</ref>に嘆いたという。また鷹狩のあと、[[御野郡]]で誤って自ら稲穂を踏み倒してしまうと、光政は稲穂を紙でくくり合わせて謝罪したという<ref group="注釈">「民の日にさらされ雨に濡れ、千辛万苦したる物を足にかけたれば、天道を恐れてぞ。くくり置たり」</ref>。また泥棒が竿にかけてあった肌着を盗もうとして捕縛されたとき、泥棒は罪を軽くしてもらおうと「肌着の下のねぎを盗ろうとした」と述べた。すると光政は激怒して<ref group="注釈">「ねぶか(ねぎ)は一本にても、民の作物に手を掛候段指免しがたく候」</ref>。泥棒を入牢させたという<ref>『[[有斐録]]』</ref>。のちに光政は百姓保護のため、田地売買の統制令や貧農没落の阻止に努めている。
* 光政が百姓の負担を軽くしようと雑税を軽減したとき、年貢をもっと上げるべきと家臣が提言したが、光政は「右の手をあらい左の手を汚す」として許さなかったという<ref>谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)、1987年、P128</ref>。
* 光政が閑谷学校を訪れた時、和気郡の某村の賤民がかなり遠くから光政の来訪を出迎えていた。光政はそれを見て「あの者達は?」と家臣に質問すると「あれは卑賤の民で、奴らは猪や狸を剥ぎ肉食をする不浄の者どもです」と答えた。それを聞いて光政は彼らを差別する家臣らにむしろ激怒し<ref group="注釈">「其方どもは異な事を申物や。彼等も百姓なり。猪・狸をはぎ肉食をする事、誰とてもすまじきにあらず。何ぞ彼等に限りて其通りに見捨べき事やある」</ref>、彼らに近くに寄ることを許したという<ref>谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)、1987年、222頁</ref>。また、この事で賤民の事に関心を抱いた光政は、同じ年の末に「彼らの差し出す年貢を如何している」と役人に質問すると、「奴らは不浄なので年貢は藩庫や知行米には廻しておりません」と答えた。これを聞いて光政は役人を叱り付けてその心得違いを諭し、これからは彼らを一般の百姓と差別しないように命じた<ref>谷口澄夫『池田光政』吉川弘文館(人物叢書)、1987年、223頁</ref>。
*[[衆道]]を嫌悪し、同性愛を激しく弾圧した。光政にとっては男色はかぶき者と同列の存在であり、断じて許すべきではないものとして、光政は男色を「大不義」と呼んだ<ref>[[福田千鶴]] 『酒井忠清』(吉川弘文館([[人物叢書]])、2000年、76P)</ref>1658年、男色が原因で死者が出る刃傷沙汰が起こり、関係者が切腹や追放などの処分を受けたこれを契機として光政は男色の規制を強化し、男色があった場合迅速に家老に連絡するよう命じた。光政にとって、男色を規制することは彼の信条とする「仁政」であった<ref>福田千鶴『酒井忠清』(吉川弘文館([[人物叢書]])、2000年、76P)</ref>。
 
=== 評価 ===