「レオポルド3世 (ベルギー王)」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
→‎第二次世界大戦: 1944~1945年頃の記述を整理。仮リンクを作成、シュトローブル|en|Strobl。
タグ: 2017年版ソースエディター
編集の要約なし
50行目:
[[1940年]][[5月10日]]、[[ドイツ国防軍|ドイツ軍]]がベルギーに侵攻した。しかし、過去に仏独間の戦争でベルギーが戦場となった経験から、レオポルド3世は様々な準備を1930年代の内には終えていた。だが、ドイツ軍の[[電撃戦]]の前に[[イギリス]]の派遣軍や[[フランス軍]]と連携することが出来なかった。ベルギーは開戦時点で[[枢軸国]]に対する備えがヨーロッパで最も進んでいた国で、ベルギーの砲兵部隊は全土が制圧されるまでの3週間にドイツ軍に多くの損害を与えた。この粘り強い抵抗は、イギリス派遣軍が海岸地帯から切り離されることを防ぎ、[[ダンケルク]]からの撤退を可能にした。ベルギー軍の降伏後、レオポルド3世はドイツ側と会談するためにブリュッセルに残り、その間に政府の全機能はパリを経てロンドンに亡命した。この行動を受け、フランス首相[[ポール・レノー]]は、レオポルド3世を反逆罪で起訴した。レオポルド3世は[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]への協力を拒絶し、命令に従ってベルギーを統治することを拒否した。にもかかわらず、ロンドンのベルギー亡命政権はその支配権を認めなかった。ドイツ軍はレオポルド3世をブリュッセルの王宮に監禁した。
 
[[ハインリヒ・ヒムラー]]の命令によりレオポルド3世はドイツに移送された。翌日、その後を追うリリアン王女夫人と家族を乗せた車が武装した[[親衛隊 (ナチス)|親衛隊]]に警護されて出発した。1944~1945年冬にかけ、国王一家はナチスによって[[ザクセン州]]ヒルシュシュタイン・アン・デア・エルベの[[城塞|城砦]]、次いで[[オーストリア]]の[[ザルツブルク]]に近い{{仮リンク|シュトローブル|en|Strobl}}に監禁された。一家は[[1945年]][[5月]]に[[アメリカ陸軍]]によって解放された。しかし、戦争中のレオポルド3世の行動をめぐる論争のため、国王一家はベルギーに帰国することが出来ず、[[スイス]]で6年間の亡命生活を過ごした。その間、[[1944年]]に議会によって摂政に任命されたレオポルド3世の弟[[シャルル・ド・ベルジック|シャルル]]王子がベルギーを統治していた。
 
=== レオポルド3世の王位復帰に対する論争 ===
64行目:
== 家族 ==
[[アストリッド・ド・スエード|アストリッド]]王妃との間に以下の2男1女を儲けた。
* [[ジョゼフィーヌ=シャルロット・ド・ベルジック|ジョゼフィーヌ=シャルロット]] (1927(1927年-2005年) )- ルクセンブルク大公[[ジャン (ルクセンブルク大公)|ジャン]]妃
* [[ボードゥアン1世 (ベルギー王)|ボードゥアン1世]] (1930(1930年-1997年) )- 第5代ベルギー国王
* [[アルベール2世 (ベルギー王)|アルベール2世]](1934(1934年-))-  第6代ベルギー国王
               
 
*
*
*
*
また、[[リリアン・バエル|リリアン]]夫人との間に以下の1男2女を儲けた。
* アレクサンドル(1942年 - 2009年)
* マリー=クリスティーヌ(1951年 - )
* マリー=エスメラルダ(1956年 - )- ジャーナリスト
 
==脚注==