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マックス宰相は連合国との講和交渉を開始し、10月23日に[[アメリカ合衆国大統領]][[ウッドロウ・ウィルソン]]は十四カ条の平和原則に基づく講和の条件として、ドイツ帝国における[[軍国主義]]と王朝的専制主義の除去を要求した<ref name="d3-109-119"/>。独立社会民主党らは皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]の[[退位]]を要求し、講和運動が広範囲に行われるようになった<ref name="d3-109-119"/>。これに反発したルーデンドルフが交渉継続に反対して戦争継続を主張するという事態が起きたが、マックス大公子は皇帝[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]に迫ってルーデンドルフを解任、後任に[[ヴィルヘルム・グレーナー]]が就任した{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.53}}<ref name="d3-109-119"/>。
 
その後憲法改正による議院内閣制や普通選挙などの導入が行われたが{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.53-54}}、アメリカ側が皇帝の退位を求めているという情報がチューリヒ在住のアメリカ領事からもたらされた。ウィルソン自身は皇帝の退位を求めたことはなく、また想定もしていなかったが{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.56}}、10月25日頃からは皇帝の退位問題が講和の前提として公然に語られるようになった{{Sfn|牧野雅彦|2009|p.58}}。この情勢の動きを見てマックス大公子の政府も皇帝退位の方針を固めつつあったが、ヴィルヘルム2世とその周辺はあくまで退位に反対した。10月29日に皇帝は不穏なベルリンを離れて[[司令部|大本営]]のある[[スパ (ベルギー)|スパ]]に向かい、後を追ってきたマックス大公子の退位要請も拒絶した<ref name="d3-109-119"/>
 
== キールの反乱とレーテ蜂起 ==
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キールの乱は鎮静化したが、こうしてドイツ革命が開始された{{sfn|山田義顕|1998|pp=1}}。この後キールから散った水兵や労働者によって同様の蜂起はたちまち広まり、5日には[[リューベック]]、{{仮リンク|ブルンスビュッテルコーク|en|Brunsbüttel}}、6日には[[ハンブルク]]、[[ブレーメン]]、[[ヴィルヘルムスハーフェン]]、7日には[[ハノーファー]]、[[オルデンブルク]]、[[ケルン]]、8日には西部ドイツすべての都市がレーテの支配下となり、各地で将校が逮捕されて武装解除され、各地の軍当局は兵士評議会・労働者評議会の主権を無抵抗で承認した{{sfn|山田義顕|1998|pp=2}}。
 
[[11月7日]]から始まった[[#バイエルン革命|バイエルン革命]](ミュンヘン革命とも)ではバイエルン王[[ルートヴィヒ3世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ3世]]が退位し、君主廃止の先例となっは打倒され、レーテが権力を掌握し<ref name="D-R"/>。このような大衆的蜂起と労兵レーテの結成は、[[11月8日]]までにドイツ北部へ、[[11月10日]]までにはほとんどすべての主要都市に波及した。総じてレーテ運動と呼ばれ、ロシア革命時の[[ソビエト]](評議会)を模して組織された労兵レーテであるが、[[ボリシェビキ]]のような前衛党派が革命を指導したわけではなく、多くの労兵レーテの実権は社会民主党が掌握した。
 
== 人民委員評議会政府成立 ==
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社会民主党にとってレーテ(評議会)とはボルシェビズムの[[ソビエト]]であったのでこれを否定したため、独立社会民主党やスパルタカス団などの革命派との抗争となっていく{{sfn|山田義顕|1998|pp=3}}。しかし、ベルリンの兵舎や工場で相次いでレーテが結成されはじめたため、政権の維持を目指したエーベルトは独立社会民主党との連立政府「人民委員政府」の結成に踏み切った{{sfn|山田義顕|1998|pp=3}}。[[11月10日]]、社会民主党、[[独立社会民主党]](USPD)、民主党からなる[[臨時政府|仮政府]]「{{仮リンク|人民委員評議会|de|Rat der Volksbeauftragten}}」が樹立された。その日の内に[[ヴィルヘルム2世 (ドイツ皇帝)|ヴィルヘルム2世]]は[[オランダ]]に亡命した<ref name="D-R"/>。一方、ベルリンの労兵レーテは人民委員評議会を承認したものの、独立社会民主党の左派である{{仮リンク|革命的オプロイテ|de|Revolutionäre Obleute}}が半数を占める{{仮リンク|大ベルリン労兵レーテ執行評議会|de|Vollzugsrat des Arbeiter- und Soldatenrates Groß-Berlin}}を選出し、ドイツにおける最高権力をゆだねることを宣言し、二重権力状態が生まれた{{sfn|山田義顕|1998|pp=3}}。
 
11月10日夜、共産主義革命への進展を防ぎ、革命の早期終息を図るエーベルトのもとに、グレーナー参謀次長から電話があり秘密会談がもたれた。その結果として、エーベルトらは革命の急進化を阻止し、議会の下ですみやかに秩序を回復すること、そしてこれらの目的達成のための実働部隊を軍部が提供することを約束し、ま軍は、軍の維持と将校の権威の回復など旧来の将校組織を温存するという協定が結ばれ({{仮リンク|エーベルト・グレーナー協定|de|Ebert-Groener-Pakt}})。また軍は旧来の将校組織を温存する保障を獲得し、人民委員評議会政府を支援することなっドイツ軍の相互依存関係が開始し{{sfn|山田義顕|1998|pp=4}}エーベルトはまた旧来の官僚組織を温存し、社会民主党員を派遣することで行政機構を維持しようとした{{sfn|山田義顕|1998|pp=4}}。また一方、海軍は水兵の反乱将校の権威が失墜したまま混乱が続き、維持は認められたが革命を制圧する能力はなかった{{sfn|山田義顕|1998|pp=4}}。しかし首都の治安を守るために[[クックスハーフェン]]から呼び寄せた水兵とベルリンの水兵による「{{仮リンク|人民海兵団|de|Volksmarinedivision}}」が結成された。しかし海兵団には次第に革命的オプロイテが浸透し、左傾化していくことになる。
 
== 模索期 ==
[[11月11日]]、ドイツ代表の[[マティアス・エルツベルガー]]、グレーナーらが連合国との[[ドイツと連合国の休戦協定 (第一次世界大戦)|休戦条約]]に調印し、第一次世界大戦は公式に終結した<ref name="D-R"/>。
 
== 模索期 ==
[[11月15日]]には、先の政治協定と似た形で、[[労働組合]]と大企業の間に「中央労働共同体」協定が結ばれた。({{仮リンク|シュティンネス・レギーン協定|de|Stinnes-Legien-Abkommen}})労働組合や[[労働運動]]の急進化を防ぐために、団結権の承認など資本家側からの譲歩と労使協調を内容としていた。
 
[[12月16日]]、全国労兵レーテ大会では、急進派が、ドイツ帝国軍の解体と「国民軍」の創設を要求したが、エーベルトはこれを無視して、多数派を占める社会民主党員の賛成により翌1919年1月19日の国民議会の召集とその選挙を決定し<ref name="D-R"/>。これに反発した独立社会民主党は政府から離脱し、同党左派のスパルタクス団は1918年12月末共産党を結成し、翌1919年1月の選挙の実施がボイコットを決定され<ref name="D-R"/>
 
[[12月23日]]、[[ベルリン王宮]]を占拠していた人民海兵団を武装解除しようとエーベルトが派遣した部隊との間に戦闘が起きたが、結局は撃退された。これに抗議して独立社会民主党は政府から離脱した({{仮リンク|人民海兵団事件|de|Weihnachtskämpfe}})。新政府にはノスケが入閣し、軍事問題を扱うこととなる。
 
== ベルリン・スパルタクス団蜂起 ==
[[12月30日]]、[[ローザ・ルクセンブルク]]らの[[スパルタクス団]]を中心に[[ドイツ共産党]](KPD)が結成された。
 
== ベルリン・スパルタクス団蜂起 ==
[[画像:Bundesarchiv Bild 146-1976-067-30A, Revolution in Berlin, Soldaten im Kampf.jpg|250px|right|thumb|ベルリンで武装抵抗する革命派]]
[[1919年]][[1月5日]]、独立社会民主党員であったベルリンの警視庁長官[[エミール・アイヒホルン]]([[:de:Emil Eichhorn|de]])が辞職させられたことをきっかけとして政府に反対する大規模なデモが起き、武装した労働者が主要施設などを占拠した。これに対して独立社会民主党や共産党は無為無策に終始したため、翌日デモは自然解散した。政府は革命派への本格的な武力弾圧を開始し、以降「[[スパルタクス団蜂起|一月闘争]]」(スパルタクス団蜂起)と呼ばれる流血の事態が続いた。
 
[[1月9日]]、ノスケの指示によって、旧軍兵士によって編成されたフライコール([[ドイツ義勇軍]])がベルリンに到着し、スパルタクス団などの革命派と激しい戦闘を展開した(スパルタクスの週)。[[1月15日]]までには革命派は鎮圧され、また同日、革命の象徴的指導者であった[[カール・リープクネヒト]]とローザ・ルクセンブルクが彼らにより殺害された。以降、各地に広がった労働者の武装蜂起は、[[ミュンヘン]]に成立していたレーテ共和国を筆頭に次々とフライコール(義勇軍)により鎮圧されるとともに労兵レーテも解体・消滅していった。散発的な蜂起や[[ゼネラル・ストライキ|ゼネスト]]は続いたが、[[ドイツ国防軍|国防軍]]も動員され数ヶ月のうちにほとんど鎮圧された<ref name="D-R"/>
 
== 国民議会選挙によるワイマール共和国の成立 ==
[[1月19日]]、国民議会選挙が実施され、社会民主党が第一党を獲得した。[[2月6日]]、[[ヴァイマル]]の地で国民議会が召集された。国家の政体を[[議会制民主主義]][[共和国]]とすることが確認され、いわゆる「[[ヴァイマル共和政|ワイマール共和国]]」が誕生した。また、[[大統領]]にエーベルト、[[首相]]にシャイデマンが選出され、社会民主党・民主党・中央党からなる「ワイマール連合」政府が成立した。後には、当時世界で最も民主的な憲法とされた[[ヴァイマル憲法]]が制定された<ref name="D-R"/>
 
1919年2月、ワイマール国民議会で大統領にエーベルト、[[首相]]にシャイデマンが選出され、社会民主党、中央党、民主党によるワイマール連合政府が形成された<ref name="D-R"/>。これら3党は革命以前のマックス・フォン・バーデン政府の支柱であった<ref name="D-R"/>。後には、当時世界で最も民主的な憲法とされた[[ヴァイマル憲法]]が制定された。
 
[[スパルタクス団蜂起]]以後、ワイマール共和国軍(フライコールと国防軍)は、各地に広がった労働者の武装蜂起(レーテ・ストライキ)、3月のベルリンでのゼネスト、5月にミュンヘンのレーテ共和国を鎮圧し、ドイツ革命は終焉を迎えた<ref name="D-R"/>。
[[1月19日]]、国民議会選挙が実施され、社会民主党が第一党を獲得した。[[2月6日]]、[[ヴァイマル]]の地で国民議会が召集された。国家の政体を[[議会制民主主義]][[共和国]]とすることが確認され、いわゆる「[[ヴァイマル共和政|ワイマール共和国]]」が誕生した。また、[[大統領]]にエーベルト、[[首相]]にシャイデマンが選出され、社会民主党・民主党・中央党からなる「ワイマール連合」政府が成立した。後には、当時世界で最も民主的な憲法とされた[[ヴァイマル憲法]]が制定された。
 
== バイエルン革命 ==
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[[ファイル:KurtEisner1919.jpg|thumb|[[クルト・アイスナー]]]]
[[ファイル:Anton Graf von Arco auf Valley.png|thumb|[[アントン・グラーフ・フォン・アルコ・アオフ・ファーライ]]伯爵]]
{{mainsee|バイエルン・レーテ共和国}}
 
[[バイエルン王国]]では共産主義者が[[ソビエト]]体制を構築しようとして内戦状態となり、またアイスナー首相はユダヤ人であったので右派の「匕首伝説」の筋書きの通りとなった<ref name="K-I-136-150"/>。1918年[[11月7日]]、首都[[ミュンヘン]]で独立社会民主党のユダヤ人[[クルト・アイスナー]]が共和政府樹立を宣言した。同日、ミュンヘンのデモ隊が軍駐屯地に向かったが、軍は無抵抗であった<ref name="K-I-136-150"/>。軍の支援がなかったドイツの[[ライヒ|帝政]]は崩壊した<ref name="K-I-136-150"/>。革命が成立した要因には、戦局の悪化による厭戦感情と、オーストリアの降伏によりバイエルンが戦場となることへの危機感があった。また、[[ルートヴィヒ3世 (バイエルン王)|ルートヴィヒ3世]]が権力に執着せず速やかに退位したことで、政権の移行も速やかに行われた。バイエルンの王家[[ヴィッテルスバッハ家]]はアイスナーらに追放された<ref name="K-I-136-150"/>。
 
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[[4月30日]]、ルイトポルト・ギムナジウムにおいて「赤軍独裁」を宣言した23歳の水兵エグルホーファーが、[[トゥーレ協会]]会員を含む人質8人と政府軍兵士2人を拷問の果てに[[白軍]]への報復として処刑した<ref name="K-I-136-150"/>。捕虜殺害の報によって反革命軍は奮い立ち、ミュンヘン市街戦が展開して、死者660人に達した<ref name="K-I-136-150"/>。レヴィーネは捕らえられ、[[7月5日]]に処刑され、バイエルン革命は終焉した。
 
革命以後はバイエルンで右翼勢力が支持されるようになり、ミュンヘンでの[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]結成につながっていく<ref>林(1976) 94頁 「5 ドイツ共産革命の失敗」 を参照。</ref>。
 
== その後のドイツ社会への影響 ==
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左翼革命に反発した右派は、いわゆる[[匕首伝説]]を流布させていった。[[パウル・フォン・ヒンデンブルク]]やルーデンドルフが言明し、[[ヒトラー]]をはじめとする[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチ党]]などは、第一次世界大戦で依然として戦争遂行の余力があったドイツを、国内の社会主義者、共産主義者、ユダヤ人とそれに支持された政府が裏切り、「勝手に」降伏した、もしくは「[[背後の一突き]]」を加えたことによりドイツを敗北へと導いたとするデマゴギーが生まれ、[[反ユダヤ主義]]が高まっていった<ref name="p-416-434">[[#ポリアコフ4|ポリアコフ4]],pp.416-434.</ref><ref name="d3-138-9">[[#ドイツ史 3|ドイツ史 3]],pp.138-9.</ref>。また、人民委員政府のエーベルトもベルリンの帰還兵を前に「いかなる敵も諸君を打ち破れなかった」としてドイツ軍不敗の神話を演説し、匕首伝説の拡大を支えた<ref name="d3-138-9"/>。このほか、新しいドイツ・ナショナリズムとしての「[[保守革命]]」なども展開した。ヒトラーはドイツ11月革命を「国家と民族への犯罪」として演説で繰り返し、レーテ共和国を持ち出すことは「背後からの一突き」や国際ユダヤ人陰謀論に説得力を持たせることとなった<ref name="K-I-136-150"/>。[[ハプスブルク家]]を批判していたヒトラーは後に宮廷勢力に関わらないですむようにしてくれたことだけは革命を起こした社会民主党に感謝すると述べている<ref name="K-I-136-150"/>。
 
ミュンヘンではレーテ共和国革命とそれに続く内戦は、ソ連等外国の共産党勢力に押しつけられた「[[恐怖政治|恐怖支配]]」として住民の記憶に残った<ref name="K-I-136-150">[[#カーショー上|カーショー上巻]],p.136-150.</ref>。さらにドイツ全土でも、バイエルン革命はロシアの[[ボリシェヴィキ]]とユダヤ人がドイツを乗っ取るという見方が広まり、中産階級向けの新聞ミュンヒナー・ノイエステ・ナハリヒテン紙は「ロシア・ボリシェヴィズム工作員」である共産党が「罪のない人々を虐殺した」とし、これは「人道と正義の法に対する罪」であると報じた<ref name="K-I-136-150"/>。[[反共主義|共産主義への恐怖]]は保守的な中産階級と農村部に浸透し、ドイツの人民の間で急進右翼が支持されるようになり、これ以降、バイエルンは反革命の巣窟となった<ref name="K-I-136-150"/>。レーテ共和国崩壊後、40万の兵士を擁するバイエルン住民防衛軍が編成された<ref>[[#カーショー上|カーショー上巻]],p.196-7.</ref>。バイエルンでの右翼勢力の発展は、ミュンヘンでの[[国家社会主義ドイツ労働者党|ナチス]]結成につながっていった<ref>林(1976) 94頁 「5 ドイツ共産革命の失敗」 を参照。</ref>。
 
[[1920年]][[3月13日]]に右派クーデター[[カップ一揆]]がベルリンで発生した。これに対抗した[[ルール地方]]の左派労働者が蜂起した([[ルール蜂起]])。ルール労働者評議会(レーテ)が結成され、一部が[[ルール赤軍]]として反乱を起こしたが、3月から4月にかけてヴァイマル共和国軍によって多数の犠牲者を出して鎮圧された。
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*{{Cite book|和書|editor=[[木村靖二]]編| coauthors =[[山内進]]、坂口修平|title=ドイツ史|series=世界各国史13 |publisher=山川出版社|date=2001-08|ref=各国史13}}
*[[林健太郎 (歴史学者)|林健太郎]] 『両大戦間の世界』 講談社〈講談社学術文庫〉、1976年
*[[クラウス・コルドン]]『ベルリン1919』理論社 2006年
*{{Cite book|和書|author=牧野雅彦|year=2009|title = ヴェルサイユ条約 マックス・ウェーバーとドイツの講和|publisher = 中央公論新社|isbn= 978-4121019806|ref=harv}}
* {{Cite journal|和書|author=山田義顕|title=ドイツ革命期の海軍兵士最高評議会 |date=1992|publisher=大阪府立大学 |journal=大阪府立大学紀要, 人文・社会科学 |volume=40 |naid=40000306842 |pages=1-16 |ref=harv}}
*{{Cite book |和書 |author = [[イアン・カーショー]] | others = 石田勇治監修、川喜田敦子訳 |title = ヒトラー(上)1889-1936 傲慢 |date= 2016-01-20 |publisher = 白水社 |isbn= 978-4560084489 |ref =カーショー上}}
*{{Cite book |和書 |author = レオン・ポリアコフ | others = 菅野賢治・合田正人監訳、小幡谷友二・高橋博美・宮崎海子訳 |title = 反ユダヤ主義の歴史 第4巻 自殺に向かうヨーロッパ |date= 2006-07 |publisher = 筑摩書房 |isbn= 978-4480861245 |ref = ポリアコフ 4}}[原著1977年]
 
== 関連作品 ==
*[[クラウス・コルドン]]『ベルリン1919』理論社 2006年 - 小説
 
== 関連項目 ==
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* [[民族ボルシェヴィズム]]
* [[スパルタクス団蜂起]]
* [[クラウス・コルドン]]『ベルリン1919』
* [[オーストリア革命]]
* [[ロシア革命]]
124 ⟶ 127行目:
* [[反ユダヤ主義]]
* [[保守革命]]
* [[ミュンヘン一揆]]の終息([[1923年]])
 
; [[ドイツの歴史]]における[[11月9日]]の大事件
* [[ミュンヘン一揆]]の終息([[1923年]])
* [[水晶の夜]]([[1938年]])
* [[ベルリンの壁崩壊]]([[1989年]])
 
== 外部リンク ==