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== 概要 ==
[[承久]]元年([[1219年]])の3代将軍[[源実朝]][[暗殺]]に対する反省から、新将軍に予定された[[九条頼経|九条三寅]](後の頼経)の警備のために同年[[7月28日_(旧暦)|7月28日]]に[[侍所]]から分離して設置される。初代別当は[[北条重時]]。鎌倉幕府においては、別当には[[北条氏]]一族の有力者が任命され、その下に所司以下の諸役が置かれた。小侍所では「番帳」を作成してこれを基に一日一晩の宿直にあたる[[番役]]や将軍外出の際の供奉人の選定を行い、その催促・統轄を行った。こうした役職の選定には代々幕府に仕えていた[[東国]][[御家人]]の一族であるという家柄が重視された他、[[弓道|弓]][[馬術|馬]]・[[蹴鞠]]・[[管弦]]などの諸芸に通じている事も考慮されたため、これに選ばれることは名誉であるとされていた。また、小侍所の中でも特殊な例として陰陽師の存在があげられる。これは実朝暗殺の際に[[後鳥羽天皇|後鳥羽上皇]]の命によって[[所職]]を奪われて事実上の追放とされた実朝近侍の3名の陰陽師(安倍泰貞・安倍親職・安倍宣賢)を小侍所の職員としたのを嚆矢とし、将軍や幕府の為に[[陰陽道]]の儀式を行っている。3名は[[承久の乱]]においても鎌倉方勝利のための祈祷を行い、乱後に下向した[[安倍国道]]や[[惟宗文元]]とともに鎌倉陰陽師(関東陰陽道)の基礎を築いた<ref>赤澤春彦『鎌倉期官人陰陽師の研究』(吉川弘文館、2011年)P340-341</ref>。
 
室町幕府においても職掌はほぼ同一であったと考えられているが、別当・所司などの区別が無く単に「小侍所」と呼ばれて、便宜上においてその長たる者を「所司」と呼ぶ場合もあった。[[足利氏]]と近い関係がある有力[[守護大名]]が任命され、侍所とともに「両侍所」と呼ばれていた。