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Koshoku (会話 | 投稿記録)
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寛永7年([[1630年]])11月、[[静岡浅間神社|浅間神社]]付近にある[[賎機山]]で猿狩りを行うも、殺生を禁止されている神社付近でやった上に、そもそも賎機山では野猿が神獣として崇められ殺す事自体が禁止されており、更にはこの浅間神社は祖父である徳川家康が14歳の時に元服した徳川将軍家にとっても神聖な場所であった。そんな場所で将軍家の血を引く忠長が猿狩りを行うのは以ての外であったのだが、猿狩りを止めるよう懇願する神主に対し、忠長は自らが駿河の領主である事と田畑を荒らす猿を駆除するのを理由に反対を押し切って狩りを続け、この一件で忠長は1240匹もの猿を殺したとされている。そしてその帰途の際には、乗っていた[[駕籠]]の担ぎ手の尻を[[脇差]]で刺し、驚いて逃げ出した担ぎ手を殺害してしまっており、これらを聞いた家光を激怒させ、咎められている。
 
寛永8年([[1631年]])12月、家臣の[[小浜七之助]]と共に鷹狩りに出かけた際に雪が降り、忠長は寺で休息していたが、火を焚くよう命じられていた七之助が、薪が雪で濡れていて火が付けられなかった事に癇癪を起こし、七之助を手打ちにしてしまう。事態を知って泣き叫ぶ父親が幕府に訴え出た結果、これまでの乱行の数々もあって遂に家光の堪忍袋の尾が切れてしまう事になり、それを理由として甲府への[[蟄居]]を命じられる。その際、秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが、許されなかった。
 
寛永9年([[1632年]])の秀忠の危篤に際して江戸入りを乞うたが、これも許されず、一説では忠長の横暴な振る舞いを知った秀忠本人からも面会を拒絶されたとされている。
 
=== 改易とその後 ===
秀忠死後、甲府に台徳院殿(秀忠)供養の寺院建立や、[[加藤忠広]]改易の際に風説を流布したとして改易となり、領国全てを没収され、10月20日に[[安藤重長]]に預けられる形で[[上野国]][[高崎市|高崎]]へ[[逼塞]]の処分が下される。また、その際に朝倉宣正、鳥居成次も連座して改易されている。
 
寛永10年12月6日(<!--西暦に換算すると原則的には[[1633年]]だが旧暦・新暦の対応で12月6日は翌年に当たる-->1634年1月5日<!--となる-->)、幕命により高崎の[[大信寺 (高崎市)|大信寺]]において自刃した<ref name="小諸藩120">塩川『シリーズ藩物語、小諸藩』、P120</ref>。[[享年]]28。墓は43回忌にあたる[[延宝]]3年([[1675年]])になって大信寺に建立され、現在では高崎市指定史跡となっており、硯箱、自刃に用いた短刀、自筆の手紙などが位牌とともに保存されている。