「三遊亭圓楽 (5代目)」の版間の差分

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圓楽の司会就任から1年後、それまでの[[松崎真]]に代わる新しい座布団運びとして[[山田隆夫]]が就任。これ以降、回答者だけでなく座布団運びも番組の流れに積極的に絡むようになった。山田はやり過ぎたり、自らを罵倒する回答をしたメンバー(主にこん平及び弟子のたい平)を座布団から突き飛ばしたり(時に蹴り飛ばしたり)することがあるが、これも圓楽の助言がきっかけで始められた<ref name="rikunabi">{{Cite web|url=http://next.rikunabi.com/journal/entry/20151120_1 |title=幸せと座布団を運び続けて31年!笑点・山田クンが語る「継続する先に見えるもの」 |publisher=リクナビNEXT |date=2015-11-20 |accessdate=2015-12-11 }}</ref>。山田罵倒ネタの際には、山田の判断に一任したり、彼を擁護する発言をすることも多かった。
 
圓楽は大喜利メンバー全員で一つのファミリーを形成しているとの考えを持ち、番組の空気やリズムになじむのに時間がかかるということでメンバーの入れ替えはほとんど行わなかった{{Efn|それまで頻繁に行われていた大喜利の席替えも1992年の好楽・小遊三の入れ替えを最後に行われておらず、以降の新メンバーは前のメンバーが座っていた場所にそのまま入るケースが続いている。}}{{Efn|マンネリの打破やレクリエーションの一環として、メンバー全員が参加するロケ企画(ボウリング大会、山田隆夫の新居訪問、後述する自身の墓の墓参りなど)が行われていたのもこの時期である。}}。23年間司会を務めながら、その間に新加入した大喜利メンバーは[[三遊亭小遊三]]と[[林家たい平]]{{Efn|ただし、あくまで圓楽司会当時は休演した師匠・林家こん平の代演扱いだった。たい平がレギュラーメンバーに昇格したのは圓楽の勇退に伴い司会が歌丸に交代してからである。}}の2人だけ。[[1988年]](昭和63年)に弟子の[[三遊亭好楽]]が復帰してからは、たい平が加入するまでの16年間を同じメンバーで通した。こん平が長期の休演を余儀なくされた際も、圓楽は「代わりに変な芸人は入れるな。入れるなら、山田くんを大喜利に入れればいい」と語ったという<ref name="rikunabi" />。
 
歴代司会者として23年は歴代でく務めていだったが、[[2001年]](平成13年)[[2月11日]]の放送では、本来3問行われる大喜利を2問で終わらせようとしてしまった{{Efn|ちなみにこの7年後に後任司会者の歌丸も同様の失敗をやってしまい、2008年(平成20年)[[2月10日]]放送の時は三遊亭楽太郎(現:[[三遊亭圓楽 (6代目)|6代目三遊亭圓楽]])に「あれをね、うちの師匠がやった後、[[脳梗塞|ああなった]]んですよ」とネタにされた。また、現司会者の[[春風亭昇太]]も[[2017年]][[6月25日]]放送分で同様のミスを犯している。}}。
圓楽本人によると、このミスは[[脳梗塞]]の兆候の現れで、このことが切っ掛けで降板を考えるようになったとのこと<ref>『[[スッキリ!!]]』[[2006年]][[5月15日]]放送分の本人のインタビューより</ref>{{Efn|なお、この「大喜利2問で終了」はこの時が最初と思われがちだが(エピソードが語られる際に用いられる映像がもっぱら2001年放送のものであることが多いため)、それ以前にも[[1999年]](平成11年)[[11月7日]]の放送で行ってしまっている。}}。