「ヘルベルト・フォン・カラヤン」の版間の差分

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[[1957年]]には同楽団と初の[[日本]]演奏旅行を行う(カラヤン自身は1954年、[[NHK交響楽団]]を指揮するため単身来日していた)。日本公演では[[リヒャルト・ワーグナー|ワーグナー]]の『[[トリスタンとイゾルデ (楽劇)|トリスタンとイゾルデ]]』の「前奏曲と愛の死」や[[ヨハネス・ブラームス|ブラームス]]の交響曲第1番などが特に評価され、[[日比谷公会堂]]の客席からはすすり泣きさえ聞かれたという<ref name="Karajan&Karajan94">[[伴有雄]]「ウィーンなきカラヤンとカラヤンなきウィーン」『カラヤンとカラヤンの時代』帰徳書房、1979年、94頁。</ref>。
 
[[1956年]]にはウィーン国立歌劇場の芸術監督に就任。ベルリンとともに、世界の人気を二分する両オーケストラを同時にたばねることになり、このころから帝王と呼ばれ始める。なお、残された録音が少ないために忘れられがちであるが、この時期を中心にウィーン交響楽団への登場も非常に多い(演奏会としてはフイルハーモニア管弦楽団の倍以上、150回に及ぶ)
 
ウィーンのポストは監督のエゴン・ヒルベルトと対立し1964年に辞任。以後十数年、ウィーン・フィルとは一部のレコーディングとザルツブルク音楽祭のみでの関係となる。[[1950年代]]からは[[ミラノ]]・[[スカラ座]]でも主要な指揮者として活躍していた。1964年12月17日にスカラ座での[[椿姫 (オペラ)|椿姫]]の上演が完全に失敗したため、以後スカラ座では「椿姫」の上演を封印することとなった([[マリア・カラス|カラス]]の呪い)。このころから健康問題の不調に悩まされるようになりながらも、世界中でおびただしい回数の演奏旅行を行った。