削除された内容 追加された内容
言葉の使い方の修正
タグ: モバイル編集 モバイルウェブ編集
21行目:
'''西郷 隆盛'''(さいごう たかもり、{{旧字体|西鄕隆盛}}、[[文政]]10年[[12月7日 (旧暦)|12月7日]]([[1828年]][[1月23日]]) - [[明治]]10年([[1877年]])[[9月24日]])は[[日本]]の[[武士]]([[薩摩藩]]士)・[[軍人]]・[[政治家]]。
 
[[薩摩国]]薩摩藩の下級[[藩士]]・[[西郷吉兵衛|西郷吉兵衛隆盛]]の長男。[[諱]]は[[元服]]時に'''隆永'''(たかなが)のちに武雄・'''隆盛'''(たかもり)と変更。[[幼名]]は小吉、[[仮名 (通称)|通称]]は吉之介、善兵衛、吉兵衛、吉之助と順次変更。[[雅号|号]]は南洲(なんしゅう)。隆盛は父と同名であるが、これは[[王政復古 (日本)|王政復古]]の章典で[[位階]]を授けられる際に親友の[[吉井友実]]が誤って父・吉兵衛の名届けたため出てしまい、それ以後は父の名を名乗ったためである。一時、西郷三助・菊池源吾・大島三右衛門、大島吉之助などの[[変名]]も名乗った。
 
西郷家の初代は熊本から鹿児島に移り、鹿児島へ来てからの7代目が父・吉兵衛隆盛、8代目が吉之助隆盛である。次弟は[[戊辰戦争]]([[北越戦争]]・[[新潟県]][[長岡市]])で戦死した[[西郷吉二郎]](隆廣)、三弟は明治[[政府]]の重鎮[[西郷従道]](通称は信吾、号は竜庵)、四弟は西南戦争で戦死した[[西郷小兵衛]](隆雄、隆武)。[[大山巌]](弥助)は従弟、[[川村純義]](与十郎)も親戚である。