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曹操が[[滎陽市|滎陽]]で董卓軍の[[徐栄]]に大敗し馬を失うと、曹洪は自分の馬を譲ろうとした<ref>曹洪は[[白鵠]]という名馬に乗っていたという(『拾遺記』・『太平御覧』)。</ref>。曹操が辞退したが、曹洪は「天下に洪なかるべきも、公なかるべからず」と直言して曹操に馬を譲り、自分は徒歩で曹操に付き従った。やがて{{lang|zh|汴}}水に達すると、水嵩が深く渡るのが困難な状況であったため、曹洪は岸辺を巡り歩き船を探し出し、曹操と共に船に乗って、汴水を渡って譙県まで逃げた<ref>『[[三国志演義]]』では、曹洪が曹操を担いで汴水を渡った事にされている。</ref>。
 
この敗戦後、曹操は軍の再建のため[[揚州 (古代)|揚州]]に赴き兵を募った(「武帝紀」)。曹洪は揚州[[刺史]]の[[陳温]]と親交があったため、家兵1000人余りを連れて募兵した。すると[[廬江]]で精鋭2000、さらに強兵で知られる[[丹陽郡 (江蘇省)|丹陽]]兵を数千も手に入れることができたため、亢で曹操と合流した。
 
[[興平 (漢)|興平]]元年([[194年]])、[[兗州]]で[[張バク|張邈]]が[[呂布]]を引き入れて反乱を起こした。当時、大飢饉が起きていたが、曹洪は本軍に先行して東平・范を占拠し、本軍に食料を補給した。曹操が呂布を敗走させた後は、反乱に与しなかった[[東阿県|東阿]]に拠って、[[済陰郡|済陰]]・山陽・[[中牟県|中牟]]・陽武・京・密といった合計十県以上を攻撃し、全て攻め落とした。この前後の功により鷹揚[[校尉]]に任じられ、さらに揚武[[中郎将]]に昇進した。