「ネブカドネザル2世」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
→‎来歴:  en:Nebuchadnezzar II (02:03, 31 May 2015)の「Life」の項を翻訳し、既存の記事と統合して作成
36行目:
 
== 来歴 ==
ネブカドネザル2世は新バビロニア建国者ナボポラッサルの最も年上のしてかつ、彼の後継者である。彼は紀元前630年頃に生まれた。ネブカドネザル2世は[[旧約聖書]]の中に「ネブカドネツァル」として現れることでも知られる。バビロンは3世元前607年から606年かけて皇太子として[[わたり、同じメソポタミアの国家であるアッシリア]]に遠征へ従属続けていたが[[ハッナボポッサルはバビロ|ハラン]]にあったアッシリアの残存勢力を攻撃、紀元前606年から605年にかけてそれを助けるべく出兵解放した大国[[古代エジプト|エジプト]]。また、ナボポラッサルはメディアやペルシア、スキタイ、キンメリアと王[[同盟のもと、ニコ2世]]率いるエジプト軍ヴェを滅ぼした。ベロッソス撃退さると父親に代わって軍彼がバビロン総裁と王にる数年前にカルケミシュバビロン王朝と結ばれた現在のジュラーブルス姻戚関係になったとハマらしい。バビロンのニでエジプト軍を打ち破って[[歴史的シア|シリア]]ス女王が彼大半を制圧し妻だっ([[カルケミシュの戦とも、ある]])は娘だったともいわれ、相反する記述が残されている<br>
 
ナボポラッサルは、当時、エジプトのネコ2世の勢力圏にあったシリア西部地域の古代アラムをバビロニア帝国のものにすることを決意。この目的を達成するため、彼は息子ネブカドネザルに大軍を与えると、西方へ派遣した。ネブカドネザルは紀元前607年から606年にかけて皇太子として[[アッシリア]]に遠征し、[[ハッラーン|ハラン]]にあったアッシリアの残存勢力を攻撃。紀元前606年から605年にかけてそれを助けるべく出兵した大国[[古代エジプト|エジプト]]の王[[ネコ2世]]率いるエジプト軍に撃退されると、父親に代わって軍の総裁となって軍を立て直し、カルケミシュ(現在のジュラーブルス)とハマトでエジプト軍を打ち破って[[歴史的シリア|シリア]]の大半を制圧。シリア地方とフェニキアはバビロニアの支配下に入った([[カルケミシュの戦い]])。ところが、父王ナボポラッサルは[[紀元前7世紀|紀元前605年]][[8月15日]]紀元前605年8月15日に死去。ネブカドネザルは急きょ[[バビロン]]へ帰還し、三週間で政権を握り、父の王位を継ぎバビロニア王となった。<br>
[[紀元前7世紀|紀元前605年]][[8月15日]]に父王ナボポラッサルが死去すると急遽[[バビロン]]へ帰還し、三週間で政権を握り、父の王位を継ぎバビロニア王となった。彼が王となってすぐ(紀元前601年)にエジプトは[[歴史的シリア|シリア地方]]とパレスチナへの介入を再開した。征服したシリア地方の諸王国において各地で反乱の火の手があがり、ネブカドネザル2世はエジプトに大敗した。これに対し[[紀元前6世紀|紀元前597年]]にはパレスチナにかろうじて存続していた[[ユダ王国]]を属国とした。また、イェルサレムに攻め入って、[[エホヤキン]]王を首都[[バビロン]]に連行した(第一回[[バビロン捕囚]])。[[紀元前6世紀|紀元前595年]]には東に転じて[[エラム]]を攻撃し、かつて全[[オリエント]]を征服して覇を唱えたアッシリア帝国の領域から、エジプトを除いたのとほぼ同じ領域を支配下に置いた。
 
バビロニア帝国の北方には強大なメディア国が展開していたが、メディア国王の娘アミュティスとネブカドネザルの政略結婚が成立。2つの帝国の間に友好関係が確立された。<br>
[[紀元前6世紀|紀元前589年]]にも再びエジプトが侵入し、ユダ王国もこれに乗じて再び反乱を起こしたために[[紀元前6世紀|紀元前587年]]に再び[[エルサレム]]を包囲し({{仮リンク|エルサレム包囲戦 (紀元前587年)|en|Siege of Jerusalem (587 BC)|label=エルサレム包囲戦}})、翌年陥落させ神殿を破壊した。ユダ王国は属州{{仮リンク|イェハド|en|Yehud (Babylonian province)}}([[紀元前6世紀|紀元前586年]] - [[紀元前6世紀|紀元前539年]])として併合された。その間に捕らえられた多くの捕虜は首都バビロンへ連行された(第二回[[バビロン捕囚]])。このことは[[旧約聖書]]、『[[列王記]]』下24:8-25:5にも記されている。同じく旧約聖書中の『[[ダニエル書]]』は彼によってバビロンへ連行された[[ユダヤ人]]たちの物語である。また[[フェニキア]]の[[テュロス]]にも軍を差し向け、13年間にもわたる包囲戦が行われたという。
 
彼が王となってすぐ(紀元前601年)にエジプトは[[歴史的シリア|シリア地方]]とパレスチナへの介入を再開した。紀元前601年のエジプトへの侵入の試みは失敗に終わり、征服したシリア地方の諸王国において各地で反乱の火の手があがった。ネブカドネザルはすぐにこれらの反乱に対処し、エルサレムを[[紀元前6世紀|紀元前597年]]に占領。[[ユダ王国]]を属国とし、[[エホヤキン]]王を首都[[バビロン]]に連行した(第一回[[バビロン捕囚]])。<br>
彼の治世の後半は史料が乏しい。旧約聖書には彼が発狂したと述べられているが、信憑性の程は分からない。彼の死後、息子の[[アメル・マルドゥク]]が王位を継いだ。
 
[[紀元前6世紀|紀元前595年]]、ネブカドネザルは東に転じて[[エラム]]を攻撃し、かつて全[[オリエント]]を征服して覇を唱えたアッシリア帝国の領域から、エジプトを除いたのとほぼ同じ領域を支配下に置いた。<br>
 
[[紀元前6世紀|紀元前589年]]にも再びエジプトがパレスチナ地方に侵入し、ユダ王国もこれに乗じて再び反乱を起こしたために[[紀元前6世紀|紀元前587年]]に再び[[エルサレム]]を包囲し({{仮リンク|エルサレム包囲戦 (紀元前587年)|en|Siege of Jerusalem (587 BC)|label=エルサレム包囲戦}})翌年、エルサレムは陥落させ神殿とエルサレムは徹底的に破壊された。ユダ王国は属州{{仮リンク|イェハド|en|Yehud (Babylonian province)}}([[紀元前6世紀|紀元前586年]] - [[紀元前6世紀|紀元前539年]])として併合された。その間に捕らえられた多くの捕虜は首都バビロンへ連行された(第二回[[バビロン捕囚]])。このことは[[旧約聖書]]、『[[列王記]]』下24:8-25:5、『エレミヤ書』『歴代誌』にも記されている。同じく旧約聖書中の『[[ダニエル書]]』は彼によってバビロンへ連行された[[ユダヤ人]]たちの物語である。また[[フェニキア]]の[[テュロス]]にも軍を差し向け、13年間にもわたる包囲戦が行われたという。<br>
 
エルサレムの破壊後、ネブカドネザルは地中海沿岸の都市[[テュロス]]に対して13年に及ぶ攻囲(紀元前586年~573年)を行ったが、完全な勝利を得ることはできず、テュロスがバビロニア帝国に服従することを条件に兵を引くことで決着した。<br>
 
テュロスとの講和の後、ネブカドネザルは再びエジプトに向かった。大英博物館に収められている粘土板にはこう記されている。「バビロンの王ネブカドネザルの治世第37年、王は、ミズレイム<ref>Mitzraim。バビロニアの文書で、エジプトを指す</ref>に対して戦争を行った。エジプトのファラオ、アマシス(注:イアフメス2世)は[彼の軍隊を]集め、進軍してエジプトの領土外に軍を展開した。」<br>
 
フェニキアの征服とエジプトへの遠征を終えた後、ネブカドネザルはバビロンの再建と装飾に着手した。また、彼は運河、水路、寺院、貯水池を整備した。<br>
 
彼の治世の後半は史料が乏しい。旧約聖書には彼が発狂したと述べられているが、信憑性の程は分からない。バビロニアの言い伝えによると、ネブカドネザルはその晩年、カルデア王朝の破滅が迫っていることを予言したという(エウセビオスの『福音の準備』(Praeparatio Evangelica)第9章第41節で引用される、ベロッソスとアビュデュノス(Abydenus)<ref>紀元前2~3世紀のギリシア人の歴史家?</ref>の文章による)。 彼はその治世第43年目の第2の月から第6の月の間にバビロンで死に、[[アメル・マルドゥク]]が跡を継いだ。
 
== 建築事業 ==