「ジェームズ・マクニール・ホイッスラー」の版間の差分

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ホイッスラーは、土木技師であった父が鉄道建設の仕事のため[[ロシア]]に移住するのに従い、1842年(1843年とも)からの数年間をロシアの[[サンクトペテルブルク]]で過ごし、その後、ロンドンやブリストルにも住んだ。1851年にはアメリカに戻って[[ウェストポイント (ニューヨーク州)|ウェストポイント]]の[[陸軍士官学校 (アメリカ合衆国)|陸軍士官学校]]に入るが1854年に中退。1年間ほど[[ワシントンD.C.]]で地形図の銅版画工として働いた後、1855年にはパリに居を構えている。
 
パリでは当時のリアリズムの巨匠であった[[シャルル・グレール]]のアトリエに通うが、その伝統的な画風にあきたらず、当時の革新的な画家であった[[ギュスターヴ・クールベ]]に強い共感を覚えた。パリでは画家の[[アンリ・ファンタン=ラトゥール]](1836 - 1904)、[[アルフォンス・ルグロ]](1837 - 1911)と「三人会」を結成している。
 
数年後の1859年にはロンドンにもアトリエを構え,ロセッティ兄妹と知り合った。以後、ロンドンとパリを往復しつつ制作活動を続け、1860年からはロンドンの[[ロイヤル・アカデミー・オブ・アーツ|ロイヤル・アカデミー]]に出品している。ホイッスラーは1862年にロンドンの展覧会に出品し、翌1863年にはパリの「[[落選展]]」に出品された、当時恋人だった[[ジョアンナ・ヒファーナン]]をモデルにした『白の少女』(ホワイト・ガール)で一躍注目を集めた。この作品では、モデルの少女の白いドレス、手にしている白い花、背景の白いカーテン、足下の白い敷物など、さまざまな白の色調が対比され、人物の内面描写よりも色彩のハーモニーを表現すること自体が絵画の目的となっている。この頃から彼の作品には「[[交響曲|シンフォニー]]」「[[夜想曲|ノクターン]]」などの音楽用語を用いた題名が付されることが多くなった。