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桜螺旋 (会話 | 投稿記録)
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== 生涯 ==
===生い立ち===
後に[[ジャーナリスト]]として活躍する長谷川清(のちに改名した[[長谷川淑夫]]の名前で知られる。楽天、あるいは世民とも号した)の長男として[[新潟県]][[佐渡郡]][[赤泊村]](現:[[佐渡市]]赤泊)に生まれる。1歳のとき、[[犬養木堂]]の依頼で函館新聞の主筆となった父に従って一家で[[函館市|函館]]に移住、同地の弥生小学校に通い、当時[[大正天皇|皇太子]]の北海道巡啓に際しては太郎の作文が[[台覧]]に供せられた。やがて北海道庁立函館中学校(現[[北海道函館中部高等学校|函館中部高校]])に入学、当時の函館は国際色豊かな港町であり、海外への憧れを抱き成長したという。父は子供の頃から海太郎に英語を教え、また[[徳富蘆花]]「順礼紀行」を愛読した。中学3年頃から[[石川啄木]]に傾倒、白楊詩社という文芸グループに参加し作詩に励み、4年の時には野球の応援団長として活躍した。
 
函館中学で5年生一同が運動部長排斥からストライキを起こし、首謀者とされた海太郎が卒業試験で落第処分となり、退校して上京し、[[明治大学]]専門部法科に入学する。大学時代は[[大杉栄]]の家にも出入りしていたともいう<ref name="shiro">長谷川四郎「随筆丹下左膳」(『長谷川四郎 ちくま日本文学全集46』筑摩書房 1992年)</ref>。明治大学専門部卒業後、勉強のために父親が旅費を工面して、1920年に太平洋航路の香取丸で渡米し、[[オハイオ州]]の[[オベリン大学]]に入学するが、同年の終わりごろ退学、様々な職種を転々としながら全米を放浪する。またIWW([[世界産業労働組合]])で組合活動も行っていた<ref name="shiro"/>
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[[File:Hasegawa-Kaitaro-hi.jpg|right|thumb|160px|鎌倉市妙本寺の海太郎夫妻の墓石横に建てられた碑]]
1935年6月、『一人三人全集』の完結した2週間後に鎌倉の自宅で35歳の若さで急死。持病の喘息の発作だったという。この時に連載中の作品として、『講談倶楽部』2作の他に谷譲次名「新巌窟王」、林不忘名「時雨伝八」「蛇の目定九郎」「白梅紅梅」、牧逸馬名「大いなる朝」「虹の故郷」「双心臓」があった。絶筆となった「都会の怪異 七時0三分」は、『[[日の出 (雑誌)|日の出]]』編集者の[[和田芳恵]]が先に聞いていた結末部分を書き足して掲載された。また文壇付き合いのなかった太郎の通夜には、和田芳恵の他、嶋中雄作、『[[オール読物]]』編集長の菅忠雄、元東京日々学芸部長の新妻莞に3人が付き添った。戒名は慧照院不忘日海居士<ref>[[工藤寛正|岩井寛]]『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)267頁</ref>。墓所は[[鎌倉市]][[比企谷]][[妙本寺]]、海太郎が腰を下ろして想を練ったという巨石の上に墓石が立てられた。この超多忙な中の急死にあって[[菊池寛]]は「ジヤアナリズムが、作家に無理な仕事をさせなくなるとすれば、我々に取っては、一つの救いである。」(『文藝春秋』1935年10月号)とも書いている。
 
死後にも[[川口松太郎]]「新篇丹下左膳」、[[谷屋充]]「新作丹下左膳」、[[陣出達朗]]「女左膳」などの左膳ものが書かれ、映画・演劇化も数多く行われている。