「北畠具教」の版間の差分

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[[弘治 (日本)|弘治]]元年([[1555年]])、父・晴具の命により伊勢国[[安濃郡 (三重県)|安濃郡]]を支配していた[[長野工藤氏]]と戦い、[[永禄]]元年([[1558年]])に次男・[[長野具藤|具藤]]を長野工藤氏の[[養嗣子]]とする有利な和睦を結ぶことで北伊勢に勢力を拡大し<ref name=朝日日本歴史人物事典/><ref name=日本大百科全書/>、永禄5年([[1562年]])5月5日に[[長野稙藤]]と[[長野藤定]]が同日に死去したため長野氏の支配権を完全に握った(具教による[[暗殺]]説もある)。
 
永禄3年([[1560年]])、[[小浜景隆]]ら[[志摩国]]の[[国人]]達を援助して[[九鬼氏]]の本拠地・田城を攻めさせ、一時的に九鬼氏を滅ぼして(城主の[[九鬼浄隆]]は戦死、弟の[[九鬼嘉隆]]は逃亡)志摩国での支配体制を固めた。さらに『勢州軍記』「秋山謀叛事」によれば、永禄初年に[[大和国]][[宇陀郡]]の国人領主・[[秋山教家]]が[[三好氏]]の婿<ref>{{Efn|また、教家が三好氏に近づいたのは永禄5年([[1562年]])の[[教興寺の戦い]]の後と思われる。</ref>}}として権勢を奮い、具教の命に従わなかったため、具教は教家の居城の神楽岡城を攻め、教家の父を人質に取ったという。このように具教は北畠家の支配範囲を順調に広げていき、北畠家の最盛期を築き上げた<ref name=朝日日本歴史人物事典/>。
 
永禄6年([[1563年]])、父の晴具が死ぬと喪に服して官職を辞し<ref name=日本大百科全書/>、嫡男の[[北畠具房|具房]]に家督を譲って隠居する。しかし北畠家の実権は依然として具教が握っていたようである。
 
ところが、永禄11年([[1568年]])以降、[[尾張国]]の[[織田信長]]が伊勢国に侵攻し、[[神戸氏]]・長野工藤氏など伊勢北中部の[[豪族]]を支配下に置いた。そして、永禄12年([[1569年]])に8月に信長自ら北畠領内への侵攻を開始した<ref name=朝日日本歴史人物事典/>。北畠軍は織田軍相手に奮戦したが、兵数に大きな差があり、具教の弟・[[木造具政]]が[[織田氏]]に寝返るなどの悪条件も重なり、次々と城を落とされた。具教は大河内城(現在の[[三重県]][[松阪市]])に籠城して死守するも、50余日に及ぶ抵抗の末に降伏する形で和睦した([[大河内城の戦い]])<ref name=朝日日本歴史人物事典/><ref name=日本大百科全書/>。このとき、具教は降伏の条件として信長の次男・茶筅丸(のちの[[織田信雄]])を具房の養嗣子として迎え入れることとなる<ref name=朝日日本歴史人物事典/><ref name=日本大百科全書/>。具房にはまだ子がなかったため、具教の娘の雪姫が信雄(茶筅丸)に嫁ぐこととなった。ただし、[[谷口克広]]はこの戦いではむしろ織田方が次第に劣勢となり、信長の要請を受けた将軍・[[足利義昭]]の仲介で和議に入ったとする説を出している<ref>{{Citation|和書|author=谷口克広|title=信長と将軍義昭|series=中公新書|year=2014年。}}</ref>。また、[[久野雅司]]は信長が茶筅丸の入嗣を強要したことで義昭の不快感を招き、信長と義昭の対立のきっかけになった事件とする見方をしている<ref>{{Citation|和書|author=久野雅司|chapter=足利義昭政権の研究」(所収:久野雅司 編著『|title=足利義昭|series=シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』(|publisher=戒光祥出版|year=2015年)ISBN |isbn=978-4-86403-162-2)2}}</ref>。
 
その後、[[元亀]]元年([[1570年]])5月、[[出家]]して'''天覚'''<ref name="北畠氏の研究">大西源一『北畠氏の研究』 </ref>、更に'''不智斎'''と号し<ref name=日本大百科全書/>、三瀬谷(現在の三重県[[多気郡]][[大台町]])に移る。しかし、少なくとも[[天正]]元年([[1573年]])9月迄は具豊(信雄)に実権を渡しておらず、天正3年([[1575年]])6月の家督譲与まで具教、具房奉公人(教兼、房兼)の文書発給が続いている<ref>{{Citation|和書|editor=戦国史研究会|title=織田権力の領域支配|publisher=岩田書院|year=2011}}</ref>。
 
また、天正3年([[1575年]])に具教は隠居城として[[伊賀国]][[丸山城 (伊賀国)|丸山城]]の築城を決め、同地域の[[土豪]]を説得、天正4年([[1576年]])正月より人夫衆を動員し作事を行ったが、織田信長と不和になり三瀬館に引き上げた。具教と立場を失ったその側近達は信長に心服しておらず、[[元亀]]4年([[1572年]])3月に具教は[[西上作戦]]の途上であった[[武田信玄]]の陣に[[鳥屋尾満栄]]を遣わせ、信玄上洛の際には船を出して協力するという密約を結んでいた<ref name=日本大百科全書/>。また、信長に敵対する[[紀伊]][[熊野]]勢に蜂起を勧めていたとされる<ref name=日本大百科全書/>。
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== 脚注 ==
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=== 注釈 ===
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=== 出典 ===
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== 参考文献 ==