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伊藤がマラソンで勝てなかったのは、レース中に苦しくなると首を振る癖があったためといわれる。その独特な走り方で人気を博したこともあるが、ライバルから見るとその仕草が伊藤のデットポイントと見極めることができ、故に勝負に弱かったという見方がある。また、早めにスパートをかける癖があり、その結果、終盤に力尽きて逆転されることが多かった。伊藤自身は、小学生の時に見た1964年[[前東京オリンピック|東京オリンピック]]のマラソンで独走した[[アベベ・ビキラ]]に憧れがあり、ゴールまで全速力で走るスタイルを取ったため、勝負所の30キロ過ぎでも飛ばしてしまったのだという<ref>[https://web.archive.org/web/20050213155107/http://www.nishinippon.co.jp/nishispo/amaretsu/45.html 九州アマ列伝45・伊藤国光]西日本スポーツ2004年12月18日</ref>。
 
1991年のボストンマラソンで8位となった直後に第一線からの引退を表明した。この中で、自身がマラソン未勝利だったことについて「勝てなかったことは、あまり考えないです。それより、自分のベストとして2時間7分台で走れたことを誇りに思います」と述べている<ref name="asahi"/>。
 
現役引退後、カネボウ監督として、[[シドニー五輪]]10000m7位入賞・現マラソン日本記録保持者の[[高岡寿成]](2009年引退)、[[世界陸上選手権]]代表の[[服部孝宏]]、[[入船敏]]らを指導。駅伝では、1996年1月1日の第40回[[全日本実業団対抗駅伝競走大会]]において、[[旭化成陸上部|旭化成]]の7連覇を阻み、18大会ぶり4度目の優勝に導いた。2011年10月、カネボウ総監督を退任。
 
2012年4月より専修大学陸上競技部監督に就任したが、2016年12月5日付で退任となった<ref>{{cite news|url=http://www.sponichi.co.jp/sports/news/2016/12/05/kiji/K20161205013852630.html|title=専大陸上部の伊藤監督退任 後任に長谷川コーチ昇格|newspaper=スポニチアネックス|date=2016-12-05|accessdate=2016-12-05}}</ref>。
 
2018年2月より、JFEスチール競走部([[広島県]][[福山市]])の監督に就任<ref>{{Cite news|url=https://mainichi.jp/articles/20180204/k00/00m/050/017000c|title=JFE競走部監督に伊藤国光氏が就任|newspaper=[[毎日新聞]]|date=2018-02-03|accessdate=2018-02-18}}</ref>。