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なお、家康も秀吉と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた猿楽師であった喜多七太夫長能に保護を与え、[[元和 (日本)|元和]]年間(1615年から1624年)に[[喜多流]]の創設を認めている。家康は観世座を好み、秀忠や家光は喜多流を好んだとされるが、[[徳川綱吉|綱吉]]は宝生流を好んだため、綱吉の治世に[[加賀藩]]や[[尾張藩]]がお抱え猿楽師を金春流から宝生流に入れ替えたと言われている。その結果、現在でも[[石川県]]や[[名古屋市]]は宝生流が盛んな地域である。
 
その一方、{{要出典範囲|猿楽が武家社会の式楽となった結果、[[庶民]]が猿楽を見物する機会は徐々に少なくなっていった|date=2018年3月}}。しかし、[[謡]]は[[町人]]の習い事として流行し、多くの謡本が出版された([[寺子屋]]の教科書に使われた例もある)。実際に観る機会は少ないながらも、庶民の関心は強く、{{要追加記述範囲|寺社への[[寄進]]を集める目的の[[勧進能]]が催されると多くの観客を集めたという|date=2018年3月}}。[[四座一流]]に属さない役者による庶民を対象とした猿楽の興行も行われ、'''辻能'''と呼ばれた<ref>[https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-02610205/ 江戸時代の能楽に関する基礎的研究] KAKEN</ref>
 
=== 明治時代 ===