「澤登正朗」の版間の差分

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丸狐 (会話 | 投稿記録)
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同級生であった[[礒貝洋光]]、[[森山泰行]]、[[菊原志郎]]等がメンバー外となった。</ref>。[[1989年]]~[[1990年]]は、合宿や海外遠征を行い、[[1991年]]の6~7月にかけて、[[バルセロナオリンピックサッカーアジア予選|バルセロナ五輪・一次予選]]が開催された。澤登は[[キャプテン (サッカー)|キャプテン]]としてチームを牽引。初戦では開始27秒で得点という記録も残した。日本は5勝1敗で1位通過。
 
一次予選を突破した日本は、[[1992年]]の1月に開催される最終予選に向けて、[[サッカー日本代表#歴代監督の一覧|A代表の監督]]を務めていた[[横山謙三]]を総監督に据え、[[山口芳忠]]監督と二頭体制で五輪代表のレベルアップを図った。しかし、初めて結成された[[U-23サッカー日本代表|23歳以下の日本代表]]ということもあってか、強化試合に思うようなメンバーを集めることができず、さらには、1次予選で7得点(内4得点が決勝点)をマークした[[山口敏弘]]が、所属チームの不祥事で出場停止処分を受け、最終予選に参加できなくなり、山口と2トップを組んでいた「アジアの虎」こと[[服部浩紀]]も調子を落とし最終的にメンバーから外れ、前線の構成が大きく変わるなど、日本は万全ではない状態でバルセロナ五輪・最終予選に臨むこととなった。澤登は最終予選もキャプテンを務め、3-5-2の[[サッカーのフォーメーション|布陣]]の中盤でプレー。後に[[サッカー日本代表|A代表]]でも活躍する[[小村徳男]]、[[相馬直樹]]、[[名良橋晃]]、[[名波浩]]らと共に中2日5試合を戦った。日本は、試合の主導権を握ってもゴールが奪えず得点力不足に悩み、試合終盤で耐え切れず失点するなど、第3戦の[[U-23サッカーバーレーン代表|バーレーン]]にこそ大勝したものの、1勝2敗1引き分けと、なかなか勝ち点を積み重ねることができなかった。他力ながら五輪出場の可能性をわずかに残した最終戦の[[U-23サッカーカタール代表|カタール]]戦では、相手のスピードに乗った攻撃に苦しめられるが、中盤では優位に立ってこれに応戦する。しかし、後半立ち上がりに失点。反撃を試みるが得点にはつながらず敗戦。混戦となった[[バルセロナオリンピックサッカーアジア予選|最終予選]]は6チーム中5位という結果に終わった。一時は勝ち抜けに必要な3位内に入った日本であったが、「引き分けでも[[OK (表現)|OK]]」という有利な状況になった第4戦の[[U-23サッカー大韓民国代表|韓国]]戦で、0-0で迎えた終了間際に痛恨の失点を喫し惜敗したのが致命傷となり、24年ぶりの[[バルセロナオリンピックにおけるサッカー競技|五輪出場]]は果たせなかった。澤登はバルセロナ五輪予選11試合出場3得点。全試合に出場し、[[セットプレー]]等から[[アシスト (スポーツ)|アシスト]]をマーク。[[オリンピックサッカー日本代表選手#バルセロナオリンピック予選(1992年)出場メンバー|バルセロナ五輪日本代表]]から唯一人、翌年に行われた[[1994 FIFAワールドカップ・アジア予選]]で試合出場を果たした。また、バルセロナ五輪・最終予選で中盤でコンビを組んだ[[永井秀樹]]とは4年後、クラブチームで再びコンビを組み、[[清水エスパルス]]を[[1996年のJリーグカップ|初タイトル]]へと導いた<ref>[[1996年のJリーグカップ]]決勝では共にアシストを記録し、初優勝に貢献し。</ref>
 
===清水エスパルス・日本代表===
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:'''日本代表(1993-1994)'''
[[1993年]]1月、若手選手中心で臨んだ[[ルナー・ニューイヤー・カップ|カールスバーグカップ]]に出場。ベンチでは[[清雲栄純]]コーチが指揮を執り、[[ハンス・オフト|オフト]]監督はスタンドで選手の動きをチェックした。この大会での活躍が認められ、2月に行われた[[サッカー日本代表|日本代表]]のイタリア遠征に招集された。[[セリエA]]、[[セリエB]]シーズン中に行われた国際親善試合では、第2戦の[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル]]戦、第3戦の[[USレッチェ|レッチェ]]戦に出場。[[国際Cマッチ]]ではあったがフル代表デビューを果たした。その後も代表に招集され、1993年4月から[[1994 FIFAワールドカップ・アジア予選|アメリカW杯・アジア予選]]に臨んだ<ref>最終予選では2歳年下(3学年下)の[[山田隆裕]]が参加を辞退したため、日本代表(ドーハ組)の最年少選手となった。</ref>。同ポジションには[[ラモス瑠偉]]などがおり、出場機会は多くはなかったが、初戦の[[サッカータイ王国代表|タイ]]戦、[[森保一]]と交代で[[ミッドフィールダー#守備的ミッドフィールダー|ボランチ]]として[[国際Aマッチ]]初出場。予選で唯一[[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|トップ下]]の選手と交代で出場した[[サッカーアラブ首長国連邦代表|UAE]]戦で、[[国際Aマッチ|Aマッチ]]初得点。最終戦の[[サッカーイラク代表|イラク]]戦では、「[[ドーハの悲劇]]」を経験。試合終了間際、ベンチの前に立って歓喜の時を待った澤登は、イラク代表の同点ゴールが入った瞬間崩れ落ち「後は覚えていない」と話した。後のインタビューで大会を振り返り、「あのチームにいられたことが誇り、個性的な選手がそろっていたし、本当に強かった」と語っている。
 
[[1994年]]、[[ハンス・オフト]]の後任として、日本代表監督に[[黄金のカルテット]]の一人でもある[[パウロ・ロベルト・ファルカン]]が就任。初陣となった[[キリンカップサッカー1994]]では、'''日本代表の背番号10番'''を付けてプレーした。この大会は当初、[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン代表]]が来日予定だったが、[[ディエゴ・マラドーナ]]の入国問題で取りやめになったため、マラドーナとの10番対決は叶わなかった<ref>{{Cite web|title=試合詳細レポート・キリンカップサッカー94|work=|url=http://www.kirin.co.jp/csv/soccer/history/1994/kcs_0522.html|accessdate=2017-01-13}}</ref>。ファルカンジャパンでは、怪我で欠場した大会<ref>[[1994年]]7月に行われたアシックスカップ(2試合)は右ひざ挫傷のため不参加となった。この大会は澤登が不在のため日本代表に背番号10番の選手は居らず、大会後には怪我の澤登に代わって、6番の[[岩本輝雄]]が新たに代表の10番に登録された。澤登は怪我から復帰後再び[[スターティングメンバー|スタメン]]に名を連ねたが、背番号は10番ではなく[[1994年アジア競技大会におけるサッカー競技|アジア大会]]で登録された16番を付けてプレーした。</ref>もあったが、[[セットプレー]]のキッカーを任されるなど、中盤のレギュラーを務めた。広島で行われた[[1994年アジア競技大会におけるサッカー競技|アジア大会]]では、怪我の影響で本調子でないながらも<ref>[[サッカーカタール代表|カタール]]戦(第2戦)は足痛により欠場した。</ref>、得点やアシストをマークする活躍を見せた。しかし同年に[[パウロ・ロベルト・ファルカン|ファルカン]]監督が[[更迭]]され、その後[[加茂周]]監督になると、しばらく代表から遠ざかることになる<ref>[[加茂周]]監督就任後の初合宿では、[[1994年アジア競技大会におけるサッカー競技|アジア大会]]の代表メンバーからは[[岩本輝雄]]らと共に招集外となった。</ref><ref>代表から離れている期間もリーグ戦では活躍し、[[1995年]]~[[1997年]]のJリーグ得点率([[ミッドフィールダー|MF]])は100試合33得点の得点率「0.330」と日本人選手で1位であった。</ref>。
 
:'''清水エスパルス(1994-1995)'''