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{{基礎情報 皇族・貴族
{{出典の明記|date=2017年1月12日 (木) 11:46 (UTC)}}
| 人名 = ジャン2世
[[File:Francesco laurana, medaglia di jean d'anjou, 1464.JPG|thumb|ジャン2世]]
| 各国語表記 = Jean II
'''ジャン2世・ダンジュー'''(Jean II d'Anjou, [[1425年]] [[ナンシー]] - [[1470年]][[12月16日]] [[バルセロナ]])は、[[ロレーヌ公国|ロレーヌ]][[ロレーヌ公|公]](在位:[[1453年]] - 1470年)。ロレーヌ女公であった母[[イザベル・ド・ロレーヌ|イザベル]]から公位を継承した。父は母の共同統治者としてロレーヌ公でもあった[[ナポリ王国|ナポリ]][[ナポリとシチリアの君主一覧|王]][[ルネ・ダンジュー]]。妹にヴォーデモン伯フェリー2世妃[[ヨランド・ダンジュー|ヨランド]]、[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|王]][[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]妃[[マーガレット・オブ・アンジュー|マルグリット]]がいる。
| 家名・爵位 = ロレーヌ公<br>カラブリア公
[[File:| 画像 = Francesco laurana, medaglia di jean d'anjou, 1464.JPG|thumb|ジャン2世]]
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 続柄 =
| 称号 =
| 全名 =
| 身位 =
| 敬称 =
| 出生日 = [[1425年]]
| 生地 = [[ナンシー]]
| 死亡日 = [[1470年]][[12月16日]]
| 没地 = [[バルセロナ]]
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 配偶者1 = マリー・ド・ブルボン
| 子女 = [[ニコラ1世 (ロレーヌ公)|ニコラ1世]]
| 父親 = [[ルネ・ダンジュー]]
| 母親 = [[イザベル・ド・ロレーヌ]]
| 役職 =
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''ジャン2世・ダンジュー'''(Jean II d'Anjou, [[1425年]] [[ナンシー]] - [[1470年]][[12月16日]] [[バルセロナ]])は、[[ロレーヌ公国|ロレーヌ]][[ロレーヌ公|公]](在位:[[1453年]] - 1470年)。カラブリア公も称した([[1435年]] - 1470年)。ロレーヌ女公であった母[[イザベル・ド・ロレーヌ|イザベル]]から公位を継承した。父は母の共同統治者としてロレーヌ公でもあった[[ナポリ王国|ナポリ]][[ナポリとシチリアの君主一覧|王]][[ルネ・ダンジュー]]。妹にヴォーデモン伯フェリー2世妃[[ヨランド・ダンジュー|ヨランド]]、[[イングランド王国|イングランド]][[イングランド君主一覧|王]][[ヘンリー6世 (イングランド王)|ヘンリー6世]]妃[[マーガレット・オブ・アンジュー|マルグリット]]がいる。
 
1453年に母が亡くなり、父から公位を譲られた<ref>三角、P167 - P168。</ref>。
[[ブルボン公]][[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル1世]]の娘マリー(1428年 - 1448年)と結婚し、4子をもうけたが、[[ニコラ1世 (ロレーヌ公)|ニコラ1世]]以外の3人の娘は夭逝、1470年のジャン2世の死後ニコラ1世が後を継いだが、[[1473年]]にニコラ1世も亡くなると甥[[ルネ2世 (ロレーヌ公)|ルネ2世]](妹ヨランドの子)がロレーヌを相続した。
 
父はナポリを巡り[[アラゴン王国|アラゴン]][[アラゴン君主一覧|王]][[アルフォンソ5世 (アラゴン王)|アルフォンソ5世]]と戦い、敗れてナポリを諦めた過去があった。ジャン2世も父と同じくナポリへの野望を抱き、ナポリ王でアルフォンソ5世の庶子[[フェルディナンド1世 (ナポリ王)|フェルディナンド1世]]に戦いを仕掛け、[[1457年]]、[[1459年]]から[[1462年]]にかけてナポリへ遠征した。しかし[[ミラノ公国|ミラノ]][[ミラノの支配者一覧|公]][[フランチェスコ・スフォルツァ]]がフェルディナンド1世に味方し援軍を送ったため、ジャン2世は敗れてナポリ王位を断念した<ref>三角、P159 - P160、グイチャルディーニ、P63、P75、P101。</ref>。
また、ヨランドの夫フェリー2世の生家・ヴォーデモン伯家はロレーヌ公[[シャルル2世 (ロレーヌ公)|シャルル2世]](母イザベルの父)の弟[[フェリー1世 (ロレーヌ公)|フェリー1世]]に始まり、かつてのロレーヌ公家の[[シャトノワ家]]の分家で、彼はヨランドと共にフェリー1世の外孫で又従兄弟に当たる。
 
[[1465年]]、[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]][[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]とも対立し[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]][[ブルゴーニュ公一覧|公]][[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル]]、[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]][[フランソワ2世 (ブルターニュ公)|フランソワ2世]]、[[ブルボン公]][[ジャン2世 (ブルボン公)|ジャン2世]]ら反国王派貴族が結成した[[公益同盟]]に加わったが、軍備に手間取っているうちにまとまりの弱い公益同盟が分裂、ルイ11世と交渉して同盟から離れた<ref>ミシュレ、P87、P101 - P102、P109 - P110。</ref>。
== 注釈・出典 ==
{{reflist}}
 
翌[[1466年]]、息子の[[ニコラ1世 (ロレーヌ公)|ニコラ]]とルイ11世の娘[[アンヌ・ド・ボージュー]]が婚約、国王から10万リーブルの持参金を与えられた。これを機にアラゴン王[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]](アルフォンソ5世の弟)から王位を奪い取るため、[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]の支援で[[イベリア半島]]へ向かった。アラゴンと戦っている最中に再び反国王派となりニコラとアンヌの婚約は破棄されたが、アラゴン王位を奪えないまま1470年、父に先立ちバルセロナで病死した<ref>三角、P160 - P161、P168、ミシュレ、P172 - P173、P231、P285 - P286、P444 - P445。</ref>。
{{先代次代|[[ロレーヌ公]]|1453年 - 1470年|[[イザベル・ド・ロレーヌ|イザベル]]と[[ルネ・ダンジュー|ルネ1世]]|[[ニコラ1世 (ロレーヌ公)|ニコラ1世]]}}
 
[[ブルボン公]][[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル1世]]の娘マリー(1428年 - 1448年)と結婚し、4子をもうけたが、[[ニコラ1世 (ロレーヌ公)|ニコラ1世]]以外の3人の娘は夭逝、1470年のジャン2世の死後ニコラ1世が後を継いだが、[[1473年]]にニコラ1世も亡くなると甥[[ルネ2世 (ロレーヌ公)|ルネ2世]](妹ヨランドの子)がロレーヌを相続した。
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* [[三角美次]]「アンジュー公ルネ善良王とプロヴァンス」([[田辺保]]編『フランスわが愛 <small>フランス学への一つの試み</small>』[[青山社]]、2000年に掲載)
* [[フランチェスコ・グイチャルディーニ]]著、[[末吉孝州]]訳『イタリア史 I』[[太陽出版]]、2001年。
* [[ジュール・ミシュレ]]著、[[桐村泰次]]訳『フランス史[中世]VI』[[論創社]]、2017年。
 
{{先代次代|[[ロレーヌ公]]|1453年 - 1470年|[[イザベル・ド・ロレーヌ|イザベル]]/[[ルネ・ダンジュー|ルネ1世]]|[[ニコラ1世 (ロレーヌ公)|ニコラ1世]]}}
 
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[[Category:ロレーヌ公]]