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1950年代に開発された「漢字テレタイプ」(通称「漢テレ」)というシステムの装置を受け継いでおり、アルファベットやかなが並んだ現在のコンピュータのキーボードではなく、打鍵する漢字の「要素」(部首のようなもの)が大量に並んだ、文字の形で写植する文字を選んで打鍵する、極めて複雑な打鍵装置を使う。写研の初期の電算写植機で採用された、51種類の要素が並んだもの(「一寸ノ巾」という順番で文字が並んでいたので「一寸ノ巾配列」と呼ばれる)ものが有名だが、後期にはより複雑化した。
 
電算写植の打鍵は慣れるとDTPより早いが、オペレーターには活字の文選工と同じだけの熟練を要求された。編集組版ソフトウェアも、プログラミング言語と同様のコマンドの羅列で行うため、取り扱いに熟練を要する上に、印刷するまで出力結果が全く分からなかった(後期の製品にはディスプレイが搭載され、ある程度は確認できるようになった)。また、ほとんどの小規模出版で導入されていた写研のシステムは、導入コストもさることながら、フォントが活字時代のような買いきりではなく、印刷するたびに写研にフォント使用料を払わないといけなかった。そのため、普通のパソコンとマウスを使って組版が行え、パソコンの画面に表示されたものと印刷される出力結果が同じである[[WYSIWYG]]を実現し、[[モリサワ]]のフォントが買い切りで使える[[DTP]]が1980年代に登場すると、まず小規模印刷からDTPに置き換えられていった。
 
DTPよりも高速印刷・大量印刷に適しており、また初期のDTPよりも「美しい」組版が可能だったため、大手新聞社や大手出版社では1990年代以後も電算写植が生き残ったが、2000年代からDTPベースのシステムに次第に置き換えられている。
 
写研は出版の電算化と写植化を共にリードし、電算写植システムとフォント使用料で大きな利益を上げたが、そのためにDTPに乗り遅れ、1998年には組版業界の最大手の座をモリサワに奪われることとなった。
 
なお、1970年代以降に写植機の電算化が進められる一方で、手動写植機の開発も1980年代までは続いており、その堅牢性が評価され、1990年代までは一定の需要があった。最終的には手動写植機もディスプレイ、メモリー、フロッピーディスク装置などを搭載し、電算写植機と遜色ない機能を備えるようになっている。特にモリサワが1986年に発売した手動写植機の最終形態「ROBO 15XY型」は、電算写植機と同様に組版を自動で行う上に、仮印字した写植の位置をディスプレイ上で確認して調整でき、さらに簡単な作図機能も備えるなど、写植機の内部で文字盤が物理的に動作している点を無視すればDTPに近い機能すら備えていた。
 
== 歴史 ==
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そんな中、1955年に朝日新聞社と新興製作所によって、漢字かな交じり文を電信で遠隔通信する「漢字テレ」と呼ばれるシステムが試作される。これは、漢字かな交じり文を電信的にやり取りするための符号化コード、符号を紙テープ(鑽孔テープ)に記録する文字盤付きの鑽孔機「漢字テレタイプ」、紙テープを読み取とって符号を送信する送信機、遠隔地で受信して紙テープに記録する受信機、紙テープを読み取って印字する「漢字テレプリンタ」(当時はディスプレイがまだ発明されていなかったので、これが現代で言う「モニター」に相当する)などからなるものであった。
 
1959年には各新聞社の統一文字コードである[[CO-59]]が策定されたこともあり、1960年代初頭には日本の新聞各社において漢テレによる自動活字鋳植システムが導入された。これは記事の受信から活字の鋳造・写植までを自動化し、新聞社の本社や共同通信社などから配信された記事を、日本の各地域の新聞社が受信して漢テレで紙テープ(鑽孔テープ)に記録し、あるいは自社取材記事ならテレタイプを使って使って自分で鑽孔し、その紙テープの内容を自動活字鋳植機(モノタイプ)が読み取って全自動で鋳植まで行うシステムで、従来の手作業で打字しながら活字を鋳植するのに比べて圧倒的な高速化が可能となった。
 
この当時のシステムは、記事の送信・受信装置、記事を紙テープに出力する鑽孔機、紙テープに内容を記録する漢テレ、紙テープの内容を読み取って鋳植する全自動活字鋳植機、で構成されていた。まだ活字であり、写植ではなかったが、これらの装置が電算写植システムにも流用されることとなる。
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=== SAPTONシステム ===
1920年代に写研の[[石井茂吉]]と森澤信夫(のちにモリサワを創業)によって写植が発明されたが、写植は主に端物に用いられ、本文組みには従来通りの活字組版が用いられていた。写研は写植を本文組版へも使用されることをめざし、1960年に全自動写植機「SAPTONシステム」を発表。
 
1965年には新聞社向けの写植システム「SAPTON-N」が実用化され、1967年に朝日新聞北海道支社と佐賀新聞社に最初に納入された。また、書籍や雑誌などの本文組版を対象とした一般向けの写植システム「SAPTON-P」も1968年に実用化され、1969年8月に[[ダイヤモンド社]]に最初に納入された。
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「SAPTON」システムは、全自動写植機「SAPTON」とテープ編集機「SAPTEDITOR」で構成されており、「テープ編集機」で紙テープ(鑽孔テープ)に記録された文字コードを、「全自動活字鋳植機」で読み取って組版する形であった。「SAPTEDITOR-P」では制御部にリレーを用いた組版処理機能が組み込まれた。
 
「SAPTEDITOR」は後にトランジスタを用いて電子化され、より高度な組版処理機能が組み込まれたが、テープ編集機に対する組版処理機能の拡張要求は増加する一方であり、その全てハードウェアだけで実現するのは困難だと判断された。そのため、写研はコンピュータを用いた編集組版ソフトウェアの開発に着手する。
 
1969年に発表された「SAPTON-A」システム用に開発された「SAPCOL」が日本初の一般印刷向けの組版ソフトウェアである。編集組版用ミニコンピュータとしてはPDP-8が用いられ(これは1971年に日立製作所のHITAC-10に置き換えられた)、当時のコンピュータはOSに相当するものを持たなかったため、OS相当のプログラムなども写研が自社で開発した。紙テープ編集ソフト「SAPCOL」の登場で、紙テープ編集機「SAPTEDITOR」はその役目を終えた。
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1972年の「SAPTON-Spits」システムでページ組版に対応。1976年には「サプトン時刻表組版システム」により、日本交通公社発行の時刻表が電算写植となった。
 
1970年代から1980年代にかけてはSAPTONシステムの小型化・低価格化・高機能化が進められ、写植を確認するディスプレイが搭載され、メディアは紙テープからフロッピーディスクとなった。[[DTP]]が普及する1990年代まで、写研の「SAPTON」システムは日本の小規模印刷における標準的な電算写植システムとして非常に普及した。
 
特に小規模印刷で大きなシェアを得たSAPTONシステムだが、小規模システムはDTPへの移行が早く、1980年代から1990年代にかけてモリサワによるMacを使ったDTPベースのシステムに置き換えられた。活字時代から写植時代にかけては長らく業界第2位の地位であったモリサワは、Adobeと提携してDTPを推進し、1998年には年商ベースで写研を抜いて業界トップとなった。
 
なお、SAPTONシステムをほぼ独力で開発した写研の藤島雅宏(2014年に死去)は、「SAPCOL」によるコマンドベースの組版をDTPに拠らずに代替するものとして、晩年はXMLベースの[[XSL Formatting Objects]]の普及に携わっていた。
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凸版印刷は、1968年に電算写植システム「Computer Typesetting System」(CTS)を富士通と共同開発した。2006年に電算時代の編集組版ソフトウェアのコマンドをXMLベースで置き換え、Adobe Indesignのプラグインとして提供する「次世代CTS」となった。
 
=== DTPへの移行 ===
==メリットとデメリット==
[[File:Shinkansen_Shinagawa_Station_South_gate.jpg|thumb|電算写植で印刷された写研の「ゴナ」と、DTPで印刷されたモリサワの「新ゴ」が混在している]]
モリサワは「MC型手動写植機」の成功で、手動写植の時代には写研に続く組版業界第2位であり、1976年には電子制御式の手動写植機「MC-100型」、1978年にはブラウン管ディスプレイを搭載して写植の印字を史上初めて肉眼で確認できるようになった「モアビジョン」を発表するなどしていたが、電算写植への動きはかなり遅く、モリサワと独ライノタイプ社との合弁会社であるモリサワ・ライノタイプ社によって1980年に発売された「ライノトロン」がモリサワによる最初の電算写植機となった。
 
1985年、ライノタイプ社はDTPにおいてアップルやアドビなどと提携する。アドビは日本のDTP業界に進出する機会をうかがっており、またモリサワもDTPに興味を持っていたことから、モリサワはライノタイプの仲介で1986年に米アドビ社と提携し、1989年にアドビよりポストスクリプト日本語フォントのライセンスを取得。同年には日本初のポストスクリプト書体となる「リュウミンL-KL」と「中ゴシックBBB」が搭載されたプリンター「LaserWriter NTX-J」がアップル社より発売され、日本におけるDTP元年となった。
 
1990年代に入ると、DTPは電算写植を急速に置き換え、モリサワは1998年には年商ベースで写研を抜いて業界トップとなった。特に、1970年代から1990年代にかけて非常に広範囲に使われた写研のフォント「ゴナ」とよく似たデジタルフォントが、モリサワの「新ゴ」として1993年に発売されたことが大きく、写研は1993年にモリサワを訴えたが2000年に敗訴した。
 
2000年代以降は大規模出版を含むほとんどの出版がAdobe IndesignベースのDTPに置き換えられ、写研を除くかつての写植メーカーがDTP向けのフォントの販売を行っているほか、Indesignでは扱うのが面倒な日本語の大規模自動組版向けのソリューション(モリサワの「[[MC-Smart]]」など)も存在している。
 
写研はDTPへの対応を全く行っていない。そもそも写研は情報公開に消極的で、2000年に写植用フォントを発表して以降の発表が無く、公式ウェブサイトすら存在しないため、DTP時代への対処を検討しているのかしていないのかすらよく解っていない。2011年の「第15回電子出版EXPO」に写研が出展し、写研の名作フォントである「ゴナ」や「ナール」をデジタルフォント化する予定があるとのアナウンスを行ったが、2018年現在でもデジタル化されていない。
 
鉄道のサインシステムは旧国鉄の「すみ丸ゴシック」を使うJR東海を除いて写研のフォントが使われていたが、電算写植の技術を持つオペレーターが少なくなっているため、DTPを使用せざるをえなくなり、看板が古くなって交換する2010年代以後に「写研のフォントとよく似たデジタルフォント」に次第に置き換えられている。
 
==メリットとデメリット==
手動機に対する電算の利点は、以下のようなものが挙げられる。<!--これでいいんでしょうか?もっと必要なことあるような気も……-->
*手動写植は基本的に1文字ずつ文字を打っていく必要がある<!--電子制御手動機とかどう加えますか?-->が、電算写植では文字入力と組版を分業化できる。