「金子孫二郎」の版間の差分

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水戸藩士・[[川瀬教徳]]の第2子として生まれ、水戸藩士・金子孫三郎能久の養子となった。はじめ小普請組となる。[[文政]]12年([[1829年]])、水戸藩主継嗣問題が起こると、父・教徳らとともに[[徳川斉昭]]を擁立した。斉昭が藩主になると、その下で歩行目付、吟味役、奥右筆を経て郡奉行となった。[[弘化]]元年([[1844年]])、[[天保]]の改革推進中の斉昭が隠居謹慎の幕命を受けると、雪冤運動に奔走して禁固刑に処せられた。斉昭が政界復帰を果たすと、それとともに孫二郎も復帰し、再び郡奉行となって[[安政]]の改革を進めた。民政に手腕を発揮し、郡奉行・吉成信貞らとともに徳川斉昭を助けた。
 
安政5年([[1858年]])に勅書問題が起こると、勅書返納に反対して奔走したが失敗に終わった。翌6年([[1859年]])に[[安政の大獄]]が起こると、かねてから計画していた[[大老]]・[[井伊直弼]]要撃を企て、[[高橋多一郎]]・[[関鉄之介]]らとともに脱藩して[[江戸]]や[[京都]]に潜伏し、安政7年[[3月3日 (旧暦)|3月3日]]([[1860年]][[3月24日]])、[[桜田門外の変]]を起こすに至った。孫二郎自身は、直接参加しなかったが、成功の知らせを受けて、[[佐藤鉄三郎]]、薩摩藩士・[[有村雄助]]とともに[[大坂]]で後挙を謀ろうとしたが、[[伏見]]で捕らえられ、[[江戸]]に送られて斬罪に処せられた。明治維新後、正四位を[[贈位]]される<ref>家臣人名事典編纂委員会編『三百藩家臣人名事典(2)』(新人物往来社、1988年) 399頁参照。</ref>。
 
== 年譜 ==