「尾澤虎雄」の版間の差分

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[[1884年]][[4月]]、[[倉澤淸人]]の[[二男]]として[[長野県]]で生まれた。[[実業家]]である[[尾澤福太郎|尾澤&#xFA1B;太郞]]の[[長女]]と[[結婚]]することになり<ref name="uchio1915_wo28">内尾直二編輯『人事興信録』4版、人事興信所・人事興信所大阪支局、[[1915年]]、を28頁。</ref>、それに伴い&#xFA1B;太郞の[[養子]]となった<ref name="uchio1915_wo28"/>。もともと&#xFA1B;太郞の長女は[[尾澤晴海|尾澤&#xFA12;&#xfa45;]]と結婚しており<ref name="uchio1925_wo40">内尾直二編輯『人事興信録』7版、人事興信所・人事興信所大阪支局、[[1925年]]、を40頁。</ref>、&#xFA1B;太郞は&#xFA12;&#xfa45;を[[養嗣子]]としていた。しかし、&#xFA12;&#xfa45;は若くして亡くなったため<ref name="uchio1915_wo28"/>、&#xFA1B;太郞の長女は虎雄と[[再婚]]することとなったのである。なお、&#xFA1B;太郞の長女と&#xFA12;&#xfa45;との間には[[尾澤金一]]が生まれており、亡くなった&#xFA12;&#xfa45;に代わって金一が尾澤家の[[嫡子]]となっていた<ref name="uchio1915_wo28"/>。
 
当時の尾澤家は[[家業]]が興隆を極めていた。もともと尾澤家は[[信濃国]]で[[製糸業]]を営んでいたが<ref>岩崎徂堂『成功経歴日本製絲業の大勢』博學館、[[1906年]]、6頁。</ref>、尾澤&#xFA1B;太郞の[[実父]]である[[尾澤金左衛門]]が[[片倉兼太郎|初代片倉兼太郎]]や[[林倉太郎]]とともに同業者を糾合して[[結社]]「開明社」を創業し、尾澤家、片倉家、林家が輪番で[[社長]]を務めるようになった<ref>岩崎徂堂『成功経歴日本製絲業の大勢』博學館、[[1906年]]、154頁。</ref><ref name="katakuranoSosoki">「片倉の草創期」『[http://rarememory.justhpbs.jp/katakura/kata.htm 車山レア・メモリーが語る片倉工業史]』レア・メモリー。</ref>。開明社は「県下第一の結社」と讃えられるほどの成功を収めたが<ref name="katakuranoSosoki"/>、やがて[[長野県]]の製糸業結社では加盟業者の独立が相次ぐようになった<ref name="katakuranoSosoki"/>。金左衛門より[[家督]]を[[相続]]した&#xFA1B;太郞も<ref name="uchio1915_wo28"/>、経営していた「[[尾澤組]]」を開明社から独立させることにした<ref name="katakuranoSosoki"/>。加盟業者の独立が相次いだ結果、長野県には器械製糸業者だけでも600社以上が乱立する事態となったが<ref name="osakaMainichi19230706">「關東關西の財閥鳥瞰――製糸業の雄を網羅する信州系」『[[大阪毎日新聞]]』[[1923年]][[7月6日]]。</ref>、その中でも尾澤組は「諏訪の六大製糸」<ref name="osakaMainichi19230706"/>と呼ばれるほどに成長した。[[1923年]]時点では長野県だけで10751,075釜の製糸所を所有していたが<ref name="osakaMainichi19230711">「關東關西の財閥鳥瞰――製糸業の雄を網羅する信州系」『[[大阪毎日新聞]]』[[1923年]][[7月11日]]。</ref>、そのほか[[埼玉県]]に10051,005釜<ref name="osakaMainichi19230711"/>、[[熊本県]]に418釜<ref name="osakaMainichi19230711"/>、[[青森県]]に348釜など<ref name="osakaMainichi19230711"/>、県外にも多数の製糸所を所有し<ref name="osakaMainichi19230711"/>、[[全国]]規模で[[事業]]を展開した。こうしたなか、虎雄は&#xFA1B;太郞の[[婿養子]]として家業に励むことになる。
 
=== 実業家として ===