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道隆の政権下で、同2年([[991年]])[[内大臣]]、同5年([[994年]])[[右大臣]]へと進む。
 
[[長徳]]元年([[995年]])、関白道隆が重い病に伏した。道隆は後継の関白に嫡男の内大臣[[藤原伊周|伊周]]を望むがこれは許されず、4月10日に死去した。4月27日に道兼は関白宣下を受ける。ところが、ほどなく道兼は病になり、5月8日に没した<ref>病中の道兼が関白に任じられた背景には、「関白は兄弟順に」という先例を作って道兼の次に道長を関白にしたいとする皇太后詮子の関与があったとする見方がある(倉本一宏『一条天皇』(吉川弘文館人物叢書、2003年) P57-58)。享年35。</ref>。世に「'''七日関白'''」(在任は7日ではない、一説には奏慶(宮廷に関白として初参内)してから7日目であったからだともいう。なお、道兼は関白在任中に1度だけ[[陣定]]を開催している<ref>『小右記』長和2年1月26日条によれば、[[藤原実資]]が宰相中将であった道兼の子・兼隆に「中将・少将の随身を祭に陪従させてはならない」という規則が二条相府(道兼)の時に定められたと述べている。</ref>)と称された。死後、[[正一位]][[太政大臣]]を追贈された。
 
[[下野国]]の豪族[[宇都宮氏]]が道兼の後裔を称し、『[[尊卑分脈]]』や「宇都宮系図」などにはそのように記されているが、これについては異説も少なくない。道兼の息子である[[藤原兼隆|兼隆]]より以降[[公卿]]になった者はなく、『大鏡』では公家としては語るべき子孫がいないことが記されている。しかしそれゆえに子孫は地方に下り在地の豪族になったともいえる。