「常溪君」の版間の差分

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[[1779年]][[5月7日]][[元賓洪氏]]が死ぬ朝政重臣たちは洪国栄を逆賊に処刑しろ糾弾した、同時に国本を横に振ったして彼を殺すという上疏文も上がり続けてきた。[[正祖]]は彼の守ろうし爵位を剥奪し、[[右議政]][[李徽之]]のを提案で新爵位常溪君に任命し、名前だけ李濬から李湛に改名する線で終了するした。[[正祖]]は、[[1784年]][[1月1日]]直接彼のホンチョまで買物をしてくれた、臣下は彼の命令を回避した。困難平山郡夫人平山申氏と結婚した。[[1786年]][[11月20日]]彼は[[漢城府]]で謎のを毒藥を飲毒殺された。彼を殺した者は[[洪国栄]]説と実父[[恩彦君]]説がある。
 
=== 死亡の後 ===
彼の生母[[常山郡夫人宋氏]]と妻平山郡夫人平山申氏は後にㅔㅔカトリック[[を信奉し、[[清国]]の神父[[周文謨]]から洗礼を受けた。1801年、誰かの密かに告発で生母[[常山郡夫人宋氏]]と妻平山郡夫人平山申氏は死刑遭いと彼の生父恩彦君も連座した。恩彦君は密かに流刑地を脱出しようとして発覚して死刑された。[[1849年]][[哲宗]]即位後宝くじた。[[哲宗]]の時と[[高宗]]の時きそ常溪君その関連し承政院日記、日省錄と朝鮮王朝実録の材料を大量にセチョ、墨汁の塗りしたりと破棄してしまった。
 
== 家族 ==