「常溪君」の版間の差分
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王妃[[孝懿王后]]は不妊であった。しかし[[正祖]]は20代半ばの若い年齢であり、他後宮や他の女性から妊娠が可能だった。[[洪国栄]]は[[金鍾秀]]と老論清流波によって逆賊に集まっ糾弾されて公職から追放された。[[洪国栄]]に反感を抱いた[[老論]]僻派また[[洪国栄]]の追放に加担した。
[[1779年]][[5月7日]][[元賓洪氏]]が死ぬ朝政重臣たちは洪国栄を逆賊に処刑しろ糾弾した、同時に国本を横に振ったして彼を殺すという上疏文も上がり続けてきた。[[正祖]]は彼の守ろうし爵位を剥奪し、[[議政府]][[右議政]][[李徽之]]のを提案で新爵位常溪君に任命し、名前だけ李濬から李湛に改名する線で終了するした。[[正祖]]は、[[1784年]][[1月1日]]直接彼のホンチョまで買物をしてくれた、臣下は彼の命令を回避した。困難平山郡夫人平山申氏と結婚した。[[1786年]][[11月20日]]彼は[[漢城府]]で
=== 死亡後 ===
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