「ジャン2世 (ロレーヌ公)」の版間の差分

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[[1465年]]、[[フランス王国|フランス]][[フランス君主一覧|王]][[ルイ11世 (フランス王)|ルイ11世]]とも対立し[[ブルゴーニュ公国|ブルゴーニュ]][[ブルゴーニュ公一覧|公]][[シャルル (ブルゴーニュ公)|シャルル]]、[[ブルターニュ公国|ブルターニュ]][[ブルターニュ君主一覧|公]][[フランソワ2世 (ブルターニュ公)|フランソワ2世]]、[[ブルボン公]][[ジャン2世 (ブルボン公)|ジャン2世]]ら反国王派貴族が結成した[[公益同盟]]に加わったが、軍備に手間取っているうちにまとまりの弱い公益同盟が分裂、ルイ11世と交渉して同盟から離れた<ref>ミシュレ、P87、P101 - P102、P109 - P110。</ref>。
 
翌[[1466年]]、息子の[[ニコラ1世 (ロレーヌ公)|ニコラ]]とルイ11世の娘[[アンヌ・ド・ボージュー]]が婚約、国王から10万リーブルの持参金を与えられた。これを機にアラゴン王[[フアン2世 (アラゴン王)|フアン2世]](アルフォンソ5世の弟)から王位を奪い取るため、[[カタルーニャ君主国|カタルーニャ]]の支援で[[イベリア半島]]へ向かった(父もフアン2世の対立王に推戴される)。アラゴンと戦っている最中に再び反国王ルイ11世派となりニコラとアンヌの婚約は破棄されたが、アラゴン王位を奪えないまま1470年、父に先立ちバルセロナで病死した<ref>三角、P160 - P161、P168、関、P245、ミシュレ、P172 - P173、P231、P285 - P286、P444 - P445。</ref>。
 
[[ブルボン公]][[シャルル1世 (ブルボン公)|シャルル1世]]の娘マリー(1428年 - 1448年)と結婚し、4子をもうけたが、ニコラ1世以外の3人の娘は夭逝、ジャン2世の死後ニコラ1世が後を継いだが、[[1473年]]にニコラ1世も亡くなると甥[[ルネ2世 (ロレーヌ公)|ルネ2世]](妹ヨランドの子)がロレーヌを相続した。
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== 参考文献 ==
* [[三角美次]]「アンジュー公ルネ善良王とプロヴァンス」([[田辺保]]編『フランスわが愛 <small>フランス学への一つの試み</small>』[[青山社]]、2000年に掲載)
* [[フランチェスコ・グイチャルディーニ]]著、[[末吉孝州]]訳『イタリア史 I』[[太陽出版]]、2001年。
* [[関哲行]]・[[立石博高]]・[[中塚次郎]]『世界歴史大系 スペイン史 1 <small>-古代~中世-</small>』[[山川出版社]]、2008年。
* [[ジュール・ミシュレ]]著、[[桐村泰次]]訳『フランス史[中世]VI』[[論創社]]、2017年。