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{{記事名の制約|司馬顒}}
'''司馬 顒'''(しば ぎょう、? - [[306年]]12月)は、中国[[西晋]]時代の[[皇族]]で、[[八王の乱]]の八王の一人。[[字]]は'''文載'''。祖父は[[司馬懿]]の弟である安平王[[司馬孚]]父は太原王{{仮リンク|司馬瓌|zh|司馬瓌}}。
 
== 生涯 ==
 
=== 若き日 ===
父を継いで太原王に封じられ、[[276年]]に封国に赴いた。翌年には河間国に改封された。
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=== 司馬倫討伐 ===
[[301年]]1月、趙王[[司馬倫]]は側近[[孫秀 (西晋)|孫秀]]と謀って帝位を簒奪し、国政を掌握した。孫秀は司馬顒が関中で強兵を擁しているのを深く憂慮し、補佐を名目として臣下を派遣して監視に当たらせた。斉王[[司馬冏]]が司馬倫誅殺を掲げて挙兵すると、元安西軍[[夏侯奭]]は侍御史を自称し、[[始平郡]]で数千の兵を集めて司馬冏に呼応した。夏侯奭は司馬顒にも協力する様使者を派遣したが、司馬顒は長史[[李含]]と図って司馬倫に加担する事を決め、主簿[[房陽]]と振武将軍[[張方]]を派遣して夏侯奭を討伐させた。夏侯奭は敗れて捕らえられ、その同胞十数人と共に長安の市で腰斬に処された。
 
司馬冏からの檄文が届くと、司馬顒は司馬冏の使者を捕えて司馬倫に送った。さらに、司馬倫からの援軍要請に応じ、張方に関中の諸将を率いさせて司馬倫の援護を命じた。だが、後に司馬顒は司馬冏と成都王[[司馬穎]]の勢力が優勢である事を知った。張方はこの時[[華陰市|華陰]]まで至っていたが、司馬顒は龍驤将軍李含・領督護[[席薳]]らに張方軍を追わせてこれを呼び戻すと、司馬冏に寝返った。
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=== 司馬冏討伐 ===
10月、[[テイ (民族)|巴氐]]族の[[李特]]が[[秦州]]6郡の流民を従えて[[益州]]で決起した。[[302年]]、司馬顒は[[李特]]討伐の為、督護[[衛博]]を梓潼に駐軍させた。李特は子の[[李蕩]]・[[李雄 (成漢)|李雄]]を陽沔へ派遣して衛博を攻撃させ、衛博は敗れて軍の大半を失った。衛博は軍を退却させたが、李蕩により幾度も追撃を受け、彼の軍はみな李蕩に降伏した。司馬顒は新たに[[許雄]]を[[梁州]]刺史に任じて李特討伐に当たらせたが、許雄もまた李特に敗れた。
 
当時、李含は司馬顒の下から離れて朝廷に仕えていたが、司馬冏の参軍[[皇甫商]]・右司馬[[趙驤]]と対立し、また司馬顒が殺した夏侯奭の兄が司馬冏に仕えていた事もあり、大いに不安に陥って長安へ逃げ戻った。この時、李含は密詔を偽造し、司馬顒へ「成都王(司馬穎)は陛下の弟であって大功があるのもかかわらず、朝廷に留まらずに封国に帰ったので、民心を得ております。斉王(司馬冏)は成都王を差し置いて専横の限りを尽くしており、朝廷から憎まれています。今、長沙王([[司馬乂]])に斉王を討つよう命じれば、兵が弱小である長沙王は必ずや殺されるでしょう。長沙王殺害の罪を理由に斉王を攻めて成都王を迎え入れ、社稷を安定させれば大勲功といえるでしょう。」と勧めると、司馬顒はこれに従った。司馬顒は司馬冏の罪状を上書すると、檄文を各地に発布して「十万の兵を集めて成都王穎、新野王歆([[司馬歆]])、范陽王虓([[司馬コウ|司馬虓]])と洛陽で合流する。長沙王乂に命じて斉王冏を邸宅に送り帰らせ、成都王穎に輔政を請う」と宣言し、李含を都督に任じて張方らと共に洛陽へ向けて進撃させた。諸軍は陰盤を通って新安に入り、洛陽から120里まで迫った。同時期、司馬乂は洛陽城内から司馬顒に呼応し、司馬冏と3日間に渡る争いを繰り広げると、これに勝利して司馬冏を処断した。司馬顒は司馬乂が敗れるのを期待していたので、これに不満を抱いた。
 
=== 司馬乂討伐 ===
 
==== 洛陽包囲 ====
[[303年]]3月、[[侍中]][[劉沈]]は[[益州]][[刺史]][[羅尚]]・[[梁州]]刺史[[許雄]]らを統率して李雄討伐を命じられたが、司馬顒は劉沈を長安に留めて軍師に任じ、代わりに[[席薳]]を蜀に派遣した。また、[[張昌]]が[[江夏郡|江夏]]で反乱を起こすと、劉沈は張昌討伐に赴くよう詔が下されたが、司馬顒はこれを拒絶した。劉沈は自らの意思で州兵を率いて藍田に進んだが、司馬顒は劉沈の兵を無理矢理奪ってこれを阻止した。
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[[304年]]1月、東海王[[司馬越]]は朝廷の諸将と共に司馬乂を捕え、張方を洛陽城内に迎え入れた。張方は城内に入ると、司馬乂を殺害した。
 
同時期、司馬顒は[[鄭県]]の高平亭に駐屯して張方軍の後援となっていたが、劉沈挙兵の報を聞くと、渭城に帰還して守備を固めた。さらに、督護[[虞夔]]に歩騎兵1万人余りを与えると、[[好畤県|好畤]]に進ませて劉沈を迎撃させた。劉沈は新平から兵を進めて虞夔を撃破すると、司馬顒は大いに恐れて長安に退却し、張方を急いで洛陽から呼び戻した。劉沈は渭水を渡ると砦を築き、司馬顒が派遣してきた軍を幾度も破ると、[[皇甫澹]]・[[衛博]]に精鋭兵五千を率いて長安門から侵入させた。彼らは奮戦して司馬顒の本陣まで迫ったが、劉沈本隊の到着が遅れたので、司馬顒軍は皇甫澹らに後軍が無い事を悟って士気は倍増した。[[馮翊郡|馮翊]]太守[[張輔]]は兵を率いて司馬顒を救援すると、側面から皇甫澹らを攻撃した。府門にて激戦が繰り広げられ、衛博とその子らは討ち死にし、皇甫澹は生け捕られた。司馬顒は皇甫澹の勇壮さを惜しんで助命しようとしたが、皇甫澹は屈服しなかったので処刑した。劉沈軍は敗北すると、敗残兵を率いて軍営に撤退した。その後、洛陽から帰還して来た張方が配下の[[敦偉]]を派遣して軍営を夜襲させると、劉沈軍は対応出来ずに壊滅した。
 
劉沈は側近100人余りと共に南へ逃走したが、[[陳倉区|陳倉]][[県令]]に捕縛された。劉沈は司馬顒と相対すると彼を詰ったので、司馬顒は激怒して劉沈を鞭打ち、[[腰斬刑|腰斬]]の刑に処した。司馬顒はまた、劉沈の参謀であった[[新平郡]]太守[[張光]]へ「起兵してどのような計略を画策したのだ」と責めたが、張光は表情を厳しくして「劉雍州が我が計を用いなかったからこそ、大王は今生きておられるのですぞ!」と答えた。司馬顒は彼を豪壮であるとして、罪には問わずに祝宴に参加させた。
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=== 朝廷の分裂 ===
 
==== 長安へ遷都 ====
7月、司馬越は右衛将軍[[陳眕]]・殿中中郎[[逯苞]]・[[成輔]]・司馬乂の旧将[[上官巳]]らと共に司馬穎討伐を掲げて決起すると、恵帝を奉じて共に鄴へ向けて軍を発した。司馬顒はこれを聞くと、張方に2万の兵を与えて鄴を救援させた。だが、張方が到着する前に司馬穎配下の[[石超]]は皇帝軍を撃破し、恵帝の身柄を確保した。司馬顒は恵帝が鄴城に入ったと知ると、張方に洛陽占拠を命じた。洛陽を守る上官巳と[[苗願]]は張方を阻んだが、張方はこれを破って洛陽城内に入った。
 
8月、都督幽州諸軍事[[王浚]]は東嬴公[[司馬騰]]と連携を取り合い、司馬穎討伐を掲げて決起した。司馬は大いに恐れ、鄴を放棄すると恵帝を連れて洛陽へ逃走した。張方は兵を派遣して司馬穎一行を迎え入れた。
 
11月、張方は恵帝と司馬穎を引き連れて長安への遷都を強行した。司馬顒は官属や歩騎三万を率いて長安を出て、灞上において一行を出迎えた。司馬顒は恵帝に拝礼しようとしたが、恵帝は車から下りてそれを止めさせた。恵帝が長安に入ると、司馬顒府が行宮(皇帝の住まう場所)となり、司馬顒は百官を選んで配置し、秦州を[[定州]]と改めた。だが、洛陽では尚書僕射[[荀藩]]・司隸[[劉暾]]・河南尹[[周馥 (西晋)|周馥]]が留まって皇帝の代わって政治を行ったので、これにより政治機能は二つに分裂し、洛陽朝廷は「東台」と呼ばれ、長安朝廷は「西台」と呼ばれるようになった。
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==== 皇甫重討伐 ====
[[305年]]、司馬顒配下の游楷らが冀城の皇甫重を攻撃してから3年目に入ったが、未だに城を落とす事は出来なかった。司馬顒は御史を派遣して皇甫重に投降を勧めたが、皇甫重は拒絶した。当時、冀城内の人々は司馬乂と皇甫商が既に殺されたことを知らなかったが、御史がこの事を告げると、人々は皇甫重を殺して司馬顒に降った。[[馮翊郡|馮翊]]太守[[張輔]]が代わって秦州刺史となった。
 
=== 司馬越との対立 ===
 
==== 山東軍決起 ====
7月、司馬越は司馬顒と張方討伐を掲げて[[徐州]]で決起し、東平王[[司馬楙]]・王浚・司馬虓らもまたこれに呼応したので、関中は震撼した。張方は司馬顒へ「我らは10余万の兵を領しております。天子を洛陽に送奉し、成都王(司馬穎)を鄴に帰還させ、公(司馬顒)は関中に留まって鎮撫し、我は北方で[[博陵郡|博陵]]を討ちます。こうすれば、天下は安んじられ、再び挙兵するものは居なくなるでしょう」と進言したが、司馬顒は許さなかった。恵帝は司馬越の挙兵を聞くと、密かに[[劉虔]]を派遣して司馬越と司馬楙に正式に官爵を与えた。これにより、朝廷の官員は長安から離れて司馬越の下に集まるようになった。
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司馬越は太弟中庶子[[繆播]]と右衛率[[繆胤]]を長安に派遣して司馬顒の説得に当たらせ、恵帝を洛陽に帰還させる事と、陝県を境に東西で国家を分割統治をする事を提案した。繆胤は司馬顒の前妻の弟であったので、司馬顒はこれに従おうとした。だが、張方は洛陽を荒らして長安遷都を強行した事から、司馬顒と司馬越の和睦により自らが処罰される事を恐れた。その為、司馬顒へ「我々は強い国力を持って天子を奉じており、天下に号令できる立場にあります。どうしてわざわざ他人の制約を受けなければならないのでしょうか」と進言すると、司馬顒はこれに同意した。さらに、恵帝の詔と称して司馬越らに封国に帰還するよう命じたが、司馬越らもまたこれを無視した。
 
同時期、司馬穎の旧将である[[公師藩]]が将軍を自称し、司馬穎の復権を掲げて趙・魏(河南河北一帯)で挙兵した。8月、司馬顒は公師藩の挙兵を知ると、司馬穎を鎮軍大将軍・都督河北諸軍事に推挙して兵千人を与え、[[盧志]]と共に鄴城へ向かわせた。また、建武将軍[[呂朗]]には洛陽の守備を命じた。司馬越は3万の兵を率いて[[沛郡|沛]]に進駐し、司馬虓は許昌から出兵して[[滎陽郡|滎陽]]に駐軍した。また、司馬越は[[豫州]]刺史[[劉喬]]を[[冀州]]刺史に、司馬虓を領豫州刺史に、[[劉蕃 (西晋)|劉蕃]]を淮北護軍に、[[劉輿]]を[[潁川郡|潁川]]太守に任じ、司馬虓は[[劉琨]]を司馬とした。だが、劉喬は恵帝の命ではないとして司馬越からの任官を拒絶し、逆に彼らの進軍を阻んだ。東平王[[司馬楙]]もまた寝返って劉喬に呼応した。
 
==== 劉喬敗北 ====
劉喬は上書して、司馬越と劉輿兄弟の悪事を告げ、自ら司馬越軍に対抗していることを伝えた。10月、司馬顒は詔と称して「劉輿は范陽王虓に謀反を強要した。鎮南大将軍劉弘、平南将軍・彭城王[[司馬]]、征東大将軍[[劉準 (西晋)|劉準]]は兵を率いて劉喬に応じるように。張方を大都督に任じるので、精兵10万を率いて許昌で呂朗と合流し、劉輿兄弟を誅殺せよ。」と告げた。また、劉喬を鎮東大将軍に任じて仮節を与え、司馬穎に将軍劉褒<ref>晋書によると褒</ref>らを、元車騎将軍石超に北中郎将[[王闡]]らを率いさせ、洛陽北の河橋で劉喬の後援とした。劉喬は[[許昌]]を攻略し、劉琨・劉輿・司馬虓を河北へ敗走させた。平昌公[[司馬模]]は将軍[[宋冑]]を河橋に進軍させ、王闡・劉褒らを防がせた。
 
劉弘は恵帝へ上書し、司馬顒と司馬越を和解させるよう勧めたが、司馬顒は劉喬の力を信じていたので、これに応じずに抗戦を続けた。劉弘は張方の暴虐な様を見て司馬顒の敗亡は必至であると判断し、諸軍を率いて司馬越の傘下に入った。
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12月、劉琨と司馬虓は王浚と結託し、幽州突騎300を率いて河橋を攻めた。王闡はこれを迎え撃つも敗れて殺され、敗残兵は張方がかつて築いた砦に逃げ込んだ。更に劉琨は司馬虓と共に黄河を渡り、滎陽で石超を討ち取った。これにより、劉喬は考城から撤退した。さらに司馬虓は劉琨と督護[[田徽]]を東進させ、司馬楙を廩丘で撃ち、司馬楙は封国に撤退した。劉琨らはさらに東進を続けて司馬越を迎え入れると、譙県で[[劉祐]]を破って殺した。劉喬軍も壊滅し、平氏へ逃走した。司馬越は陽武に進駐し、王浚は将軍[[祁弘]]に鮮卑突騎と烏桓突騎を率いさせて司馬越軍を援護した。
 
右将軍[[陳敏 (西晋)|陳敏]]が[[江南]]で決起すると、司馬顒は張光を[[順陽郡|順陽]]太守に任じ、歩騎五千を率いて荊州に入らせた。張光は劉弘の傘下に入り、協力して陳敏を討伐した。
 
==== 張方誅殺 ====
[[306年]]1月、劉喬の敗戦を聞くと司馬顒は恐れ、改めて司馬越との和平を望むようになった。しかし、張方は和睦に頑なに反対したので、なかなか決断出来なった。司馬顒の参軍[[畢垣]]は張方と仲が悪かったので、司馬顒へ「張方は灞上に駐軍して久しいですが、山東兵の勢いを恐れて進軍を躊躇い、逆に陰謀を目論んでいます。これが為される前にその芽を摘むべきです。陰謀の事は張方の近臣[[郅輔]]に聞けば分かるでしょう。」と偽りの発言を行い、繆播と繆胤も司馬顒へ「張方を斬って天下に謝罪すべきです。そうすれば、山東軍と戦わずして戦乱を収める事も出来ましょう。」と進言した。司馬顒は郅輔を招き、事の真偽を確かめようとした。郅輔が到来すると、畢垣は秘かに接近して「張方は謀反を企んでいる。さらに、卿(郅輔)が陰謀の全容を知っていると、誰かが王に告げたようだ。もし王が卿に質問したら、どう答えるつもりかね」と問うた。郅輔は驚愕して「張方の謀反など全く知らぬ。どうすべきだろうか」と尋ねると、畢垣は「王がもし問うたならば、ただ同意すればよい。そうでなければ、卿も禍から逃げる事叶わないであろう。」と勧めた。司馬顒は郅輔と会うと「張方の謀反を卿は知っているかね」と問うた所、郅輔は同意した。さらに「卿を派遣して張方を討とうと思うが、出来るかね」と問うと、郅輔は同意した。これにより、司馬顒は郅輔に張方への手紙を持たせ、それを届けることを口実に張方に接近させた。郅輔は武器を携えて張方の官府に入ったが、彼は張方の側近であった事から、守備兵は誰も疑問に思わなかった。そして、張方が郅輔から手紙を受け取って読んでいる隙に郅輔は張方を斬り、首を取って司馬顒に報告した。司馬顒はこれを聞くと郅輔を[[安定郡|安定]]太守に任じ、さらに張方の首を司馬越に送り和を請うた。
 
司馬虓は鮮卑の騎兵と平昌・博陵の兵に河橋を襲撃させ、宋冑もまた河橋を攻めた。劉褒が西に撤退すると、騎馬で追撃して新安まで至った。この戦役により、道路には数え切れない程の死体が転がったという。司馬模は前鋒督護[[馮嵩]]に宋冑と合流させ、洛陽へ向けて進軍させた。司馬顒は呂朗らを滎陽に駐軍させてこれを阻ませたが、劉琨が張方の首を示すと戦意喪失して投降した。こうして司馬越軍は洛陽に入った。
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司馬越は祁弘・宋冑・[[司馬纂]]に鮮卑兵を与えて長安攻略に向かわせ、恵帝奪還を命じた。また、[[周馥 (西晋)|周馥]]を司隸校尉に任じ、符節を与えて諸軍を監督させ、澠池に駐軍させた。
 
4月、司馬越が温県に駐軍した。司馬顒は張方の首と引き換えに司馬越らが兵を退く事を期待していたが、司馬越軍は張方が死んだと聞くと、逆に先を争って函谷関に入るようになった。司馬顒は張方を殺害した事を後悔し、郅輔を咎めて処刑した。また、[[弘農郡|弘農]]太守[[彭]]と[[北地郡|北地]]太守[[刁]]を湖県に派遣して祁弘らの進軍を阻ませた。
 
5月、祁弘は彭隨と刁默に大勝し、函谷関を突破した。司馬顒は大いに恐れ、[[馬瞻]]と[[郭]]を灞水に派遣して防戦させたが、馬瞻らは敗戦して兵は散亡した。司馬顒はこれを聞くと、遂に単身で長安から太白山へ逃走してしまった。
 
祁弘らが長安に入城すると、司馬顒の百官もまた山中に逃走した。祁弘らは恵帝を牛車に乗せて東に帰還し、太弟太保[[梁柳]]を鎮西将軍に任じて関中を守らせた。
 
=== 最期 ===
6月、司馬顒配下の馬瞻らは長安に入って梁柳を殺害し、[[始平郡|始平]]太守[[梁邁]]と共に太白山から司馬顒を迎え入れた。だが、司馬顒は長安に再び入る事により、さらに恨みを買う事を恐れたが、長安令蘇衆・記室督硃永は司馬顒へ「梁柳は病没したと称するのです。そうすれば張方を始末した誠意も伝わるでしょう。」と述べたので、これに従った。だが、[[弘農郡|弘農]]太守[[裴廙]]・秦国内史[[賈龕]]・安定太守[[賈疋]]らはこれに反発して挙兵し、馬瞻と梁邁を討伐した。司馬越もまた督護[[麋晃]]を派遣して司馬顒を攻撃させた。麋晃が鄭県に入ると、司馬顒は平北将軍[[牽秀]]を馮翊に駐軍させて麋晃を防がせたが、司馬顒の長史[[楊騰]]は司馬顒の命と偽って牽秀に戦闘を中止させ、隙を見て牽秀を殺した。これにより、関中勢力は全て司馬越に帰順してしまい、司馬顒はただ長安だけを保つのみであった。
 
12月、司馬越は朝政の混乱を鎮める為、詔書を用いて司馬顒を司徒に任じ、洛陽へ招聘した。司馬顒はこれを受けて洛陽に向かったが、司馬越の弟である南陽王司馬模はこれを認めず、密かに配下の梁臣を派遣し、河南郡新安県で雍谷の車上にて司馬顒を絞殺した。司馬顒の三子もまた殺された。
 
詔があり、彭城元王・司馬植の子、司馬融を司馬顒の後継として、成県王に改封した。
 
== 参考文献 ==
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== 脚注 ==
<references />
 
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