「1918年米騒動」の版間の差分

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[[ファイル:Suzuki Shoten burnt out.jpg|thumb|240px|[[8月11日]]に[[神戸市|神戸]]で起きた騒動によって焼き払われた[[鈴木商店]]本社]]
米価の暴騰はとどまりを見せず、[[1918年]](大正7年)[[8月1日]]には1石35円を超え、同5日には40円を超え、9日には50円を超えた。[[8月10日]]には[[京都市]]と[[名古屋市]]を皮切りに全国の主要都市で米騒動が発生する形となった。8月12日には[[鈴木商店]]が[[大阪朝日新聞]]により米の買い占めを行っている悪徳業者である(米一石一円の手数料をとっている)とのねつ造記事を書かれたことにより焼き打ちに遭った。米騒動は移出の取り止め、安売りの哀願から始まり、要求は次第に寄付の強要、[[打ちこわし]]に発展した。10日夜に名古屋[[鶴舞公園]]において米価問題に関する市民大会が開かれるとの噂が広まり、約20,000人の群集が集結した。同じく京都では柳原町(現在の京都市[[下京区]]の崇仁地区)において騒動が始まり、米問屋を打ち壊すなどして1升30銭での販売を強要した。
 
[[東京市]]では、北陸での暴動発生の報を受けても主要な政治団体は静観の構えを見せた<ref name="Hujino">[[藤野裕子]]『都市と暴動の民衆史:東京・1905-1923年』有志社 2016年 第2刷、ISBN 9784903426983 pp.239-255.</ref>。しかし、8月10日に[[宮武外骨]]を発起人として[[山本懸蔵]]ら政治・労働運動弁士による野外演説会を[[日比谷公園]]で8月13日に開催する広告が打たれ、警察が禁止の決定をしたにも関わらず当日には約2,000人の参加者が野外音楽堂に集まった。200人の警官が包囲する中で行われた即席の演説会は、聴衆の中から登壇する者も現れて怒号と興奮が高まっていた<ref name="Hujino"/>。事態は警官との衝突に発展し、暴徒となった群衆は3派に分かれ、派出所や商業施設への投石、電車や自動車の破壊、吉原遊郭への襲撃・放火を行った。浅草方面に向かった一派は翌14日に浅草・本庄近辺の米商に押し寄せ、暴力的な廉売交渉を行った。8月15日には軍が出動し、翌16日に暴動は鎮圧され総計299人が検挙されている<ref name="Hujino"/>。東京市での暴動は、他の地域と比較して反ブルジョア思想を背景とした都市暴動の性格を持っており、暴動参加者の多くは若年層の男性だった<ref name="Hujino"/>。
 
こうした「値下げを強要すれば安く米が手に入る」という実績は瞬く間に市から市へと広がり、[[8月17日]]頃からは都市部から町や農村へ、そして[[8月20日]]までにほぼ全国へ波及した。騒動は次第に米問屋から炭坑へと場所を移し、[[9月12日]]の[[三井三池炭鉱|三池炭坑]]の騒動終了まで、50日間を数えた。