「チャールズ3世 (イギリス王)」の版間の差分

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===青年時代===
[[File:Carlos, Duque da Cornualha.jpg|thumb|right|[[スペイン]]訪問時(1973年)]]
[[1966年]]には、[[アストン・マーティン]]の工場を訪問した女王より同社の「[[アストンマーティン・DB6|DB6 ヴォランテ]]」を誕生日プレゼントに送られた。その後も同社のモデルを愛用し、後に同社にワラントを下賜している。
 
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===軍歴===
[[File:Carlos, Duque da Cornualha.jpg|thumb|right|[[スペイン]]訪問時(1973年)]]
[[ケンブリッジ大学]]への入学後に、王室の習慣に則り[[イギリス海軍]]と[[イギリス空軍]]に入隊した。[[1971年]]3月以降に、イギリス海軍の[[デ・ハビランド・カナダ DHC-1]]と[[BAC ジェット・プロヴォスト]]での飛行訓練を経て、[[アブロ 748|ホーカー・シドレー・アンドーヴァー]]や王室専用機の[[BAe 146]]の操縦も行っている。また[[ダートマス]]のイギリス海軍学校での訓練を経て、「HMSノーフォーク」や「HMSミネルバ」、「HMSジュピター」への乗務を行った
 
また[[ダートマス]]のイギリス海軍学校での訓練を経て、イギリス海軍[[駆逐艦]]の「HMSノーフォーク」や「HMSミネルバ」、「HMSジュピター」への乗務を行った。
[[1979年]]8月に、幼少時より慕っていた海軍[[元帥]]でもある[[ルイス・マウントバッテン]]が、休暇に訪れていた[[アイルランド]]北西部の[[ドネゴール州|ドネゴール湾]]で、[[ヨット]]で出航直後に[[IRA暫定派]]の仕掛けた爆弾により爆破され死亡した。これにチャールズは大きなショックを受けたと言われている。
 
===慈善事業===
* この頃より国内の貧困問題解決にも取り組んでおり、[[1976年]]には、イギリスの貧しい若者に対する学業の機会や職業訓練を与えることを目的に活動する「ザ・プリンス・トラスト」を立ち上げた。チャールズ自らが、特に連邦諸国からの移民の貧困問題解決に取り組む活動に対して、自らの基金によって様々な形での支援を行っている。
 
=== ダイアナとマウントバッテン出会い ===
[[File:Prince Charles arrives at Andrews Air Force Base in the United States, 1981.jpg|thumb|right|[[アメリカ合衆国]]訪問時(1981年)]]
[[1979年]]8月に、幼少時より慕っていた海軍[[元帥]]でもある[[ルイス・マウントバッテン]]が、休暇に訪れていた[[アイルランド]]北西部の[[ドネゴール州|ドネゴール湾]]で、[[ヨット]]で出航直後に[[IRA暫定派]]の仕掛けた爆弾により爆破され死亡した。これにチャールズは大きなショックを受けたと言われている。
 
マウントバッテンの突然の死に気を落としたものの、[[1980年]]7月に[[サセックス]]・{{仮リンク|ペットワース|en|Petworth}}近くの[[カントリー・ハウス]]で[[バーベキュー]]をしていた際にマウントバッテン卿の死を悲しんでいる皇太子を、[[エドワード・スペンサー (第8代スペンサー伯爵)|スペンサー伯爵]]令嬢[[ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)|ダイアナ]]が「貴方の寂しさは理解できるし、貴方には誰かが必要だ」と慰めたことに心打たれ<ref name="ディン下17">[[#ディン下|ディンブルビー(1995) 下巻]] p.17</ref>、その後付き合うことになる。
 
===ダイアナとの結婚===
[[1981年]][[2月6日]]にチャールズが[[ウィンザー城]]でダイアナに求婚した。チャールズは「[[スキー]]旅行に出てる間、どんなに貴女に会いたかったことか」と述べたうえで「私と結婚してほしい」と簡潔に求婚したが、ダイアナは冗談だと思って笑っていたという。チャールズは真剣な求婚であることを強調し、「貴女はいつの日か王妃となるのだ」と述べたという。ダイアナはこのプロポーズを受け入れた<ref>[[#モー|モートン(1997)]] p.184-185</ref>。
 
===ダイアナとの結婚===
チャールズの決定により結婚式は1981年[[7月29日]]に[[セント・ポール大聖堂]]で挙行されることになった。祝典は実質的に結婚式前夜の[[7月23日]]夜から始まっていた。[[ハイド・パーク (ロンドン)|ハイド・パーク]]では1万2000発の花火が打ち上げられ、国中がお祭り騒ぎになった。イギリスがこれほど全国民あげての祝賀ムードに包まれたのは[[1953年]]のエリザベス2世戴冠式以来のことであったという<ref>[[#ディヴ|ディヴィス(1992)]] p.140-141</ref>。
 
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その後ダイアナは[[ハスナット・カーン]]と[[ドディ・アルファイド]]との二股交際を行った上に、チャールズとの関係や王室への批判をマスコミにばらまいた。なおその後[[1997年]][[8月31日]]に[[パリ]]で交際相手のアルファイドとともに事故死したが、この際にチャールズはダイアナの姉妹とともにパリへ移動している。ダイアナが[[パパラッチ]]過剰な報道から逃れるために法定速度を超えた車に乗っていて事故死したことや、その後も自身や2人の王子に対する過剰報道が続いたこともあり、チャールズは報道機関に2人の王子に対する報道の自粛を要請。{{要出典範囲|date=2015年10月30日 (金) 07:17 (UTC)|イギリスの各報道機関との間で協定が結ばれた。}}
 
===香港返還===
なお、このような状況下でもチャールズは公務を続け、1997年[[6月30日]]の[[香港返還|香港の返還・譲渡]]式典や、[[駐香港イギリス軍]]の撤収式典に[[クリストファー・パッテン]]総督らとともに参加し、翌日、かつてダイアナと同乗したヨット「ブリタニア号」で[[中華人民共和国]]領となった香港を離れている。
 
* なおチャールズはリベラルな発言・行動で知られており、特に[[中国共産党]]の[[一党独裁]]国家である[[中華人民共和国]]政府には冷ややかな態度をとっている。[[1997年]]の[[香港返還]]式典の際には、{{要出典範囲|date=2015年10月30日 (金) 07:10 (UTC)|チャールズが日記で[[中国共産党]]の{{誰範囲|date=2015年10月30日 (金) 07:11 (UTC)|上層部}}を「老朽した[[蝋人形]]のようだ」と表現していた}}ことが話題となった。[[1999年]]に中華人民共和国の[[江沢民]]国家主席がイギリスを公式訪問した際、チャールズ王太子は、中華人民共和国側が大使館で開催した答礼夕食会を意図的に欠席したとされている。
 
=== カミラとの再婚 ===
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== 人物像 ==
* {{要出典範囲|date=2015年10月30日 (金) 07:16 (UTC)|[[近衛兵 (イギリス)|王宮衛兵]]に[[黒人]]がいないことを指摘して改めさせるなどの[[リベラル]]な発言}}で知られる(かつて[[植民地]]として支配していた国を中心に形成されている[[イギリス連邦]]からの[[移民]]を受け入れているイギリスには、非[[白人]]の国民も多い)。
 
* リベラルな発言・行動で知られており、特に[[中国共産党]]の[[一党独裁]]国家である[[中華人民共和国]]政府には冷ややかな態度をとっている。[[1997年]]の[[香港返還]]の際には、{{要出典範囲|date=2015年10月30日 (金) 07:10 (UTC)|チャールズが日記で[[中国共産党]]の{{誰範囲|date=2015年10月30日 (金) 07:11 (UTC)|上層部}}を「老朽した[[蝋人形]]のようだ」と表現していた}}ことが話題となった。[[1999年]]に中華人民共和国の[[江沢民]]国家主席がイギリスを公式訪問した際、チャールズ王太子は、中華人民共和国側が大使館で開催した答礼夕食会を意図的に欠席したとされている。
 
* また、[[チベット問題]]には長年強い関心を寄せており、[[チベット仏教]]の最高指導者・[[ダライ・ラマ14世]]とも交流がある<ref>{{cite web|url=http://jp.epochtimes.com/jp/2008/02/html/d43018.html|title=英チャールズ王太子、北京五輪不参加|date=2008年2月9日|accessdate=2008年11月16日|author=大紀元時報}}</ref>。[[2008年]]1月には、世界の要人でいち早く、[[北京オリンピック]]の式典・競技に一切出席しない意向を民間団体に表明したことが明らかになった<ref>{{cite web|url=http://www.voiceofindia.co.jp/content/view/772/81/|title=英王太子、北京五輪出席せず。中国のチベット政策に抗議|date=2008年1月29日|accessdate=2008年11月16日|author={{lang|en|VOICE OF INDIA}}}}</ref>。同年3月に中華人民共和国が実効支配している[[チベット自治区]]において争乱が生じた際には、3月20日に5月頃ダライ・ラマ14世と会談することが公表された。
 
* 将来[[イギリス国教会]]の首長に就く立場にも拘らず、他の[[宗教]]に対してもオープンな姿勢で知られており。イギリス国内における[[イスラム教]]の研究に様々な貢献を行っている。
 
* また、[[チベット問題]]には長年強い関心を寄せており、[[チベット仏教]]の最高指導者・[[ダライ・ラマ14世]]とも交流がある<ref>{{cite web|url=http://jp.epochtimes.com/jp/2008/02/html/d43018.html|title=英チャールズ王太子、北京五輪不参加|date=2008年2月9日|accessdate=2008年11月16日|author=大紀元時報}}</ref>。[[2008年]]1月には、世界の要人でいち早く、[[北京オリンピック]]の式典・競技に一切出席しない意向を民間団体に表明したことが明らかになった<ref>{{cite web|url=http://www.voiceofindia.co.jp/content/view/772/81/|title=英王太子、北京五輪出席せず。中国のチベット政策に抗議|date=2008年1月29日|accessdate=2008年11月16日|author={{lang|en|VOICE OF INDIA}}}}</ref>。同年3月に中華人民共和国が実効支配している[[チベット自治区]]において争乱が生じた際には、3月20日に5月頃ダライ・ラマ14世と会談することが公表された。
* 国内の貧困問題解決にも取り組んでおり、連邦諸国からの移民の貧困問題解決に取り組む活動に対して、自らの基金によって様々な形での支援を行っている。
 
* [[環境問題]]にも強い関心を抱いており、自身の私的な不動産であるコーンウォール公領では[[有機農産物|有機食品]]を生産している。1992年に創設した[[イギリス]]の有機食品[[ブランド]]「[[ダッチー・オリジナルズ]]」<ref>[http://www.duchyoriginals.com/ {{lang|en|Duchy Originals}}]</ref>の[[オーナー]]である。所有するハイグローブの[[別荘]]で栽培された農産物を使用している。また自ら所有する家庭菜園でも有機農法を実践している<ref>津野志摩子 『恐るべき食品添加物と問題児-イギリスのホールフード運動』バーディ出版、1989年11月。ISBN 978-4-7918-0466-5。9頁</ref>。また動物愛護の観点から[[2008年]]3月に自邸での[[フォアグラ]]の使用を禁止した<ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/life-culture/life/2357296/2688371|title=チャールズ英皇太子、公邸でのフォアグラ料理を禁止|date=2008年3月1日|accessdate=2008年11月16日|author={{lang|en|AFPBB News}}}}</ref>。