「ナースィル・ファラジュ」の版間の差分

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| 全名 =
| 出生日 = [[13901389年]]
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| 死亡日 = [[1412年]]
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| 埋葬日 =  
| 埋葬地 = [[ダマスカス]]
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}}
'''ナースィル・ファラジュ'''({{lang-ar|الناصر فرج بن برقوق}}、[[13901389年]] - [[1412年]])は、[[エジプト]]を支配した[[マムルーク朝|ブルジー・マムルーク朝]]の第2代・第4代[[スルターン|スルタン]](在位:[[1399年]] - [[1405年]]、1405年 - 1412年)。
 
== 生涯 ==
初代スルタン・[[バルクーク|ザーヒル・バルクーク]]の子で、母はギリシャ人<ref>大原、p. 89</ref>。[[1399年]]の父の死で即位する。しかし10歳という若年の上、マムルーク朝では世襲制ではなく実力本位制の君主継承制度が採られていたために配下の多くが反発し、内紛が起こった。しかも幼主が即位したのを見て1399年から[[ティムール]]による西アジア遠征(7年戦役)が開始される。マムルーク朝は保護していた[[ジャライル朝]]の亡命君主・[[アフマド (ジャライル朝)|アフマド]]を支援してティムールに対抗した。[[1401年]]にティムールが大軍を率いて[[シリア]]に侵攻してくると、ファラジュは[[親征]]して対抗したが、[[カイロ]]などでの反乱を恐れて撤退<ref>大原、p. 113</ref>。その結果、シリアは蹂躙され、[[ダマスカス]]が略奪・破壊される<ref>大原、p. 116</ref>
 
1405年には一時的に廃されたが、すぐに復位した<ref>大原、p. 90</ref>。しかし後半期の治世では国内での反乱、飢饉による経済悪化、疫病の流行などが相次いだ。結局、1412年に配下の[[ムアイヤド・シャイフ]]らによって[[暗殺]]された。23歳であった。
 
== 脚注 ==
{{Reflist|2}}
 
== 関連文献 ==
* 大原与一郎 『エジプト マムルーク」(近藤出版社、1976年
 
{{マムルーク朝}}