「円通寺 (小城市)」の版間の差分

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== 沿革 ==
筑後三箇村の[[郡司]]であった[[三池氏]]の嫡子が氏寺として、[[白雉]]元年(650年)に開基・創健と伝わり小城市では最古の寺院である。その後、[[天台宗]]の「三箇寺」から[[平安時代]]中ごろに「三間寺」と改称される。[[鎌倉時代]]になると岩蔵寺の[[若訥宏弁]]<ref>生没年[[1217年]]~[[1293年]]</ref>が移住して、南宋から渡来した禅僧[[蘭渓道隆]]よって師事したことで[[弘安]]元年([[1278年]])禅宗の寺へと変容し現在の「円通寺」の根基が定まる。
 
その後[[千葉宗胤]]より、[[千葉氏]]の菩提寺となりその勢いは増し、鎌倉の[[建長寺]]を模した七堂伽藍を構築、[[貞和]]6年([[1350年]])三間名山円通寺興国禅寺の称号を受け、鎌倉の[[建長寺]]、京都の[[南禅寺]]と並んで'''日本三興国禅寺'''として数えられる。影響力は佐賀西部一帯に及び、頭塔31か所、平寺47か所が管下にあった<ref>「小城町史」を引く『寒河江市史 上巻』pp.435</ref>。
やがて[[千葉宗胤]]より、[[千葉氏]]の菩提寺となりその勢いは増し、現在の小城町下町に大門堂という地名が残るのは山門がその付近に設えられていたことによるものとされており、当時の趣きを示す。明治期の[[廃仏毀釈]]のあおりを受けた事もあり当地一円に誇った菩提寺としての勢力も衰退を余儀なくされる。
 
やがて[[千葉宗胤]]より、[[千葉氏]]の菩提寺となりその勢いは増し、現在の小城町下町に大門堂という地名が残るのは山門がその付近に設えられていたことによるものとされており、当時の趣きを示す。明治期の[[廃仏毀釈]]のあおりを受けた事もあり当地一円に誇った菩提寺としての勢力も衰退を余儀なくされる。
また、鎌倉の[[建長寺]]、京都の[[南禅寺]]と並んで'''日本三興国禅寺'''として数えられる。
 
== 文化財 ==
*=== 持国天・多聞天像(佐賀重要指定文化財 ===
* [http://www.pref.saga.lg.jp/kiji0031422/index.html#jyu17 木造持国天立像・木造多聞天立像]
: [[永仁]]2年([[1294年]])円通寺住持円定が[[湛幸]]・[[湛誉]]に作らせた。昭和34年3月20日指定。
 
=== 市指定文化財 ===
* [https://www.city.ogi.lg.jp/main/11165.html#1entsuji 円通寺文書]
: 円通寺に伝わる全13点の文書。蘭渓道隆・若訥宏弁・千葉宗胤に関する文書の他、後醍醐天皇・後宇多上皇など著名な人物からの書状。
 
=== 関連文化財 ===
* [[慈恩寺 (寒河江市)|慈恩寺]]所蔵 [http://www.pref.yamagata.jp/cgi-bin/yamagata-takara/?m=detail&id=1317 木造聖徳太子立像] (2018年度 国指定重要文化財指定予定)
: 1314年頃の作。三間寺で学んだ旨渕が京都西禅寺に至り、母の一周忌の供養のため造立した。胎内血書経により作成年代などが判明している。
 
== 所在地 ==
* 佐賀県小城市小城町松尾
 
== 脚注 ==
<references />
 
== 参考文献 ==
* 寒河江市史編さん委員会 『寒河江市史 上巻』 1994
 
== 関連項目 ==