「柳田國男」の版間の差分

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'''柳田 國男'''(やなぎた くにお、[[1875年]]([[明治]]8年)[[7月31日]] - [[1962年]]([[昭和]]37年)[[8月8日]])は、日本の[[民俗学者]]・[[官僚]]。現在の[[兵庫県]][[神崎郡]][[福崎町]]生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。没後に[[正三位]][[勲一等]]。当時の[[池田勇人]]首相が「民間人とはいえ、これだけの人物に[[瑞宝章]]では軽い」と発言し[[旭日大綬章]]が供えられた。[[大日本帝国憲法|帝国憲法]]下の農務官僚で[[貴族院 (日本)|貴族院]]書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の[[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]に就いた<ref name="makita">牧田茂『柳田國男』([[中公新書]]、1972年)</ref>。
 
「日本人とは何か」その答えを求め、[[日本列島]]各地や当時の日本領の外地を[[フィールドワーク|調査旅行]]し、初期は山の生活に着目し、『[[遠野物語]]』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。
 
== 生涯 ==
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* [[1910年]](明治43年)6月 - 兼任内閣書記官記録課長。「郷土研究会」を発展させて、[[新渡戸稲造]]を世話人、柳田が幹事役で「郷土会」を開始<REF>佐谷眞木人『民俗学・台湾・国際連盟』P.66</REF>。
* [[1911年]](明治44年)3月 - [[南方熊楠]]との文通<ref>『柳田国男・南方熊楠往復書簡集』(平凡社「南方熊楠選集 別巻」、のち[[平凡社ライブラリー]] 上下)参照。</ref>始まる。
* [[1913年]]([[大正]]2年)3月 - [[高木敏雄]]と共に雑誌『郷土研究』を刊行。
* [[1914年]](大正3年)4月 - [[書記官長#歴代貴族院書記官長|貴族院書記官長]]。
* [[1915年]](大正4年)11月 - [[京都]]における[[大正天皇]]の即位式に奉仕、提言を残す(当時は未公開)、この年に[[折口信夫]]と出会う。
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* [[1926年]](大正15年)7月 - 財団法人[[日本エスペラント学会]]設立時の理事に就任。(日本エスペラント学会年鑑(Jarlibro) 1926年版参照)。
* [[1930年]](昭和5年) - [[宮本常一]]との文通始まる。1934年に宮本と直接会い、これを期に宮本は民俗学の道へ進んでいくことになる<ref>宮本常一『著作集1 民俗学への道』(未來社、1968年)</ref>。
* [[1939年]](昭和14年 - 民間学術団体の[[国民学術協会]]設立会員となる。
* [[1940年]](昭和15年) - [[朝日文化賞]]受賞。
* [[1946年]](昭和21年)7月 - [[枢密院 (日本)|枢密顧問官]]就任。[[日本国憲法]]審議に立ち会う(翌年に憲法施行に伴い廃止)。
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たとえば、[[ヨーロッパ]]では1000年以上の[[キリスト教]]文明と[[民族移動時代|民族大移動]]、そしてまた近代以降の[[産業革命]]の進展のためフォークロア([[民間伝承]]、民俗資料)の多くが消滅ないし散逸してしまっているのに対し、日本ではそのようなことがなく現実のいたるところに往古の痕跡が残っているというのである。
 
言い換えれば日本にはフォークロアを歴史資料として豊かに活用できる土壌があるということであり、柳田民俗学とはこのような民間伝承の歴史研究上の有効性を所与の条件として構築されたものということができるのである。また東北地方や沖縄を様々な観点から詳細に調査したことから、東北と沖縄こそが柳田民俗学の出発点であり、古き日本の神話や伝説が今も生きてそこに存在す、そういう地域共同体として発見した。
 
== 柳田批判についての評価 ==
柳田の[[民俗学|日本民俗学]]の祖としての功績は非常に高く評価できる。<!--同性愛?→しかしその反面、自身の性格と手法によって切り捨てられた民俗・風習があることも指摘されている。たとえば柳田は、漂泊民、非稲作民、[[被差別民]]、[[同性愛]]を含む性愛、超国家的民俗などに言及することを意図的に避けている。そしてそれらの解明は、-->柳田と同時期歴史研究に影響を受けて民族学者であるとなった[[宮本常一]]は、柳田同様にフィールドワークによってる民俗資料収集を基礎とし、多くの先駆的研究がなされを残した。さらに宮本の研究は、[[網野善彦]]によって[[歴史学]]の分野でも注目を集めた。
 
一方近年では、柳田を学者としてとらえるならば、その学説は適宜取捨選択されるべきものであるとの意見も一部にみえる。しかし、<!--「民俗学」ではなく「柳田学」「[[折口学]]」「[[南方熊楠|南方]]学」のような「学者学」に陥り、個人崇拝となる傾向が顕著であるとしている。したがって、あたかも民俗学者を文学者のごとくに捉える現在の学界のあり方も批判されている。{{要出典|date=2012年8月|}}-->
 
== 代表作(一部) ==