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== 歴史 ==
[[イングランド貴族]]としての最初の創設は[[1679年]]で、兵士であり政治家であった初代ジェラード男爵[[チャールズ・ジェラード (初代マクルズフィールド伯爵)|チャールズ・ジェラード]] ([[:en:Charles Gerard, 1st Earl of Macclesfield|Charles Gerard, 1st Baron Gerard]]) のためにこの爵位が設けられた。ジェラードは既に、[[1645年]]に[[サフォーク]]州[[ブランドン]] ([[:en:Brandon, Suffolk|Brandon]]) のジェラード男爵として叙爵されていたが、伯爵位の叙爵とともに、ブランドン子爵 (Viscount Brandon) へ陞爵した。これらの爵位はいずれも[[イングランド貴族]]のものである。この初代マクルズフィールド伯爵は、高名な判事で、[[1581年]]から[[1594年]]]まで[[記録長官]] ([[:en:Master of the Rolls|Master of the Rolls]]) の任にあった[[サー]]・[[ギルバート・ジェラード (判事)|ギルバート・ジェラード]] ([[:en:Gilbert Gerard (judge)|Sir Gilbert Gerard]]) の曾孫にあたった。初代の跡を継いだのは、第2代となった長男であった。第2代伯爵は[[1683年]]の[[ライハウス陰謀事件]]に関わり、死刑判決を受けたが、その後、王([[チャールズ2世 (イングランド王)|チャールズ2世]])の特赦によって赦された。[[1701年]]に没したときに嫡子はおらず、弟が襲爵して、第3代伯爵となった。第3代伯爵は、襲爵以前に[[グレート・ヤーマス選挙区|ヤーマス]] ([[:en:Great Yarmouth (UK Parliament constituency)|Yarmouth]])、[[ランカスター選挙区|ランカスター]] ([[:en:Lancaster (UK Parliament constituency)|Lancaster]])、[[ランカシャー選挙区|ランカシャー]] ([[:en:Lancashire (UK Parliament constituency)|Lancashire]]) から選出されて、[[庶民院 (イギリス)|庶民院]]議員となったことがあった。[[1702年]]に第3代伯爵が没した際に、爵位は廃爵となった。
 
2度目は、[[グレートブリテン貴族]]としてこの伯爵位が再度創設された[[1721年]]のことで、有名な法律家であった[[トマス・パーカー (初代マクルズフィールド伯爵)|初代パーカー男爵トマス・パーカー]]が、「[[オックスフォードシャー|オックスフォード]]州 [[エウェルム]]の'''パーカー子爵''' ({{lang|en|'''Viscount Parker''', of [[:en:Ewelme|Ewelm]] in the County of Oxford}})」および「[[パラティン伯]]領[[チェスター]]の'''マクルズフィールド伯爵'''({{lang|en|Earl of Macclesfield, in the County Palatine of Chester}})」に陞爵した<ref>{{LondonGazette |issue = 5986 |date = 29 August 1721 |startpage = 1 |accessdate = 2013-10-04 }}</ref>。この初代マクルズフィールド伯爵トマス・パーカーは、[[1710年]]から[[1718年]]まで[[イングランド・ウェールズ首席判事|王座部首席判事]] ([[:en:Lord Chief Justice of England and Wales|Lord Chief Justice of the King's Bench]]) を務め、[[1718年]]から[[1725年]]まで[[大法官]]の任にあった。パーカーは既に[[1716年]]に、[[パラティン伯]]領[[チェスター]]のマクルズフィールド男爵として「パーカー卿 (Lord Parker)」となっていた<ref>{{LondonGazette |issue = 5414 |date = 6 March 1716 |startpage = 1 |accessdate = 2013-10-04 }}</ref>。これも[[グレートブリテン貴族]]の爵位のひとつであった。男爵位とは異なり、新たな子爵位や伯爵位は後継者が決められていたが、初代伯爵には男子の嫡子がいなかったため、[[ハーズリー・ハウス|ハーズリー・パーク]] ([[:en:Hursley House|Hursley Park]]) の初代[[准男爵]][[サー]]・[[ウィリアム・ヒースコート]] ([[:en:Sir William Heathcote, 1st Baronet|Sir William Heathcote, 1st Baronet]]) 夫人となっていた初代伯爵の娘エリザベス (Elizabeth) へ、さらにその息子へと爵位は継承されるものとされた。[[1725年]]、マクルズフィールド卿は汚職の罪を問われ、3万ポンドの支払いを強いられた。爵位はその後、息子が襲爵し、第2代となった。第2代伯爵は、優れた天文学者であり、[[王立協会]]の会長を何年も務めた。