「アヌーシュ・テギーン」の版間の差分

削除された内容 追加された内容
m ボット: 言語間リンク 10 件をウィキデータ上の (d:Q612727 に転記)
編集の要約なし
 
1行目:
__NOTOC__
{{基礎情報 君主
| 人名 = アヌーシュ・テギーン
| 各国語表記 = نوشتکین غرچه
| 君主号 = [[ホラズム・シャー朝]]初代君主
| 画像 =
| 画像サイズ =
| 画像説明 =
| 在位 = [[1077年]] - [[1096年|1096]]/[[1097年|97年]]
| 戴冠日 =
| 別号 =
| 全名 =
| 出生日 =
| 生地 =
| 死亡日 = [[1096年|1096]]/[[1097年|97年]]
| 没地 =
| 埋葬日 =
| 埋葬地 =
| 継承者 =
| 継承形式 =
| 配偶者1 =
| 配偶者2 =
| 子女 = [[クトゥブッディーン・ムハンマド]]
| 王家 =
| 王朝 = [[ホラズム・シャー朝]]
| 王室歌 =
| 父親 =
| 母親 =
| 宗教 =
| サイン =
}}
'''アヌーシュ・テギーン'''({{lang-fa|نوشتکین غرچه}}、Nūštekīn Gharcha、? - [[1096年|1096]]もしくは/[[1097年|97年]])は、[[セルジューク朝]]の[[テュルク系民族|トルコ人]][[マムルーク]](軍人奴隷)<ref name="clifford">C.E. Bosworth "Anuštigin Ĝarčāī", ''Encyclopaedia Iranica'' (reference to Turkish scholar Kafesoğlu), v, p. 140, Online Edition, ([http://www.iranicaonline.org/articles/anustigin-garcai-slave-commander LINK])</ref>。1077年から1097年ごろまで[[ホラズム]]地方を統治した。彼の子孫はホラズム地方の名を冠する王朝([[ホラズム・シャー朝]])の君主として、[[12世紀]]から[[13世紀]]初頭までこの地方を統治した。彼はホラズム・シャー朝の創始者とみなされているが、セルジューク朝に対しての忠誠は失わず、セルジューク朝のスルターンに対して忠勤に励んだ<ref name="tur178">ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、178頁</ref>。
 
== 生涯 ==
'''アヌーシュ・テギーン'''({{lang-fa|نوشتکین غرچه}}、Nūštekīn Gharcha、? - [[1096年]]もしくは[[1097年]])は、[[セルジューク朝]]の[[テュルク系民族|トルコ人]][[マムルーク]](軍人奴隷)<ref name="clifford">C.E. Bosworth "Anuštigin Ĝarčāī", ''Encyclopaedia Iranica'' (reference to Turkish scholar Kafesoğlu), v, p. 140, Online Edition, ([http://www.iranicaonline.org/articles/anustigin-garcai-slave-commander LINK])</ref>。1077年から1097年ごろまで[[ホラズム]]地方を統治した。彼の子孫はホラズム地方の名を冠する王朝([[ホラズム・シャー朝]])の君主として、[[12世紀]]から[[13世紀]]初頭までこの地方を統治した。彼はホラズム・シャー朝の創始者とみなされているが、セルジューク朝に対しての忠誠は失わず、セルジューク朝のスルターンに対して忠勤に励んだ<ref name="tur178">ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、178頁</ref>。
 
アヌーシュ・テギーンは、[[中央アジア]]に居住する{{仮リンク|ハラジュ|en|Khalaj people|label=ハラジュ族}}か[[キプチャク|キプチャク族]]の出身と考えられている<ref name="clifford"/>。元々はセルジューク朝の解放奴隷バルカ・テギンを主としていたが、後に[[スルターン]]・[[マリク・シャー]]の奴隷とされた<ref name="CMD152">ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、152頁</ref>。1073年にバルカ・テギンと共に、マリク・シャーに[[ガズナ朝]]に占領された北部[[ホラーサーン]]地方の奪還を命じられる。1077年にバルカ・テギンが没すると、アヌーシュ・テギーンは彼の官職であったタシト・ダール職(日本語で大水差し持ち、水盤棒持ちと訳される)<ref group="注">タシト・ダールは主人の食事の前後に、主人が料理をつかんだ手を洗うための水を持っていく役割(あるいは監督)を果たした。(勝藤『モンゴルの西征 ペルシア知識人の悲劇』、63頁)</ref>を継承した<ref name="CMD152"/><ref>ロス、スクライン『トゥルキスタン アジアの心臓部』、178,184頁</ref>。タシト・ダール職にはホラズム地方からの税収を得る権限があり、言い換えれば彼はホラズム地方の知事となったのである<ref>ドーソン『モンゴル帝国史』1巻、152,155頁</ref>。