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篠田統は、[[室町時代]]の『[[蜷川親元日記]]』(1465年-1485年)にみえる「生成(ナマナレ)」という言葉を、発酵が十分でない鮨(鮓)の意味であると理解して、これは、「漬け床」の飯も共に食べるものであるとした<ref>篠田統『すしの本』、柴田書店、[[1966年]](昭和41年)。</ref>。また、[[野口元夫|吉野曻雄]]は、鎌倉時代から室町時代の諸記録や日記にみえる鮨(鮓)は「生成」であるとし<ref>吉野曻雄『鮓・鮨・すし すしの事典』、旭屋出版、[[1990年]](平成2年)</ref>、日比野光敏は、「ナマナレ(生成)」の特質は、醗酵期間の短縮だけではなく飯の食用にあり、室町時代にはこれが主流となるとしたうえで、飯を食べないものを「ホンナレ」と称して区別した<ref>日比野光敏『すしの貌』、大巧社、[[1997年]](平成9年)。同『すしの歴史を訪ねる』〈岩波新書 新赤版六四一〉、岩波書店、[[1999年]](平成11年)。同『すしの事典』、東京堂出版、[[2001年]](平成18年)。</ref>。この変化は蒸して強飯として食べられていた米を、炊いて柔らかい姫飯として食べるようになった食生活の変化が生み出したとされる<ref>長崎福三『江戸前の味』92頁 成山堂書店</ref>。
 
しかしながら、室町時代以降に「[[なれずし]]」の発酵期間が短縮され、また、「漬け床」の飯も食用とされたということを史料で確認することはできない。櫻井信也によれば、奈良、平安時代以来、室町時代から織豊時代にかけても鮨(鮓)の多くを占めるのは鮎や鮒の「[[なれずし]]」であるが、各時代の鮎や鮒などの同じ種類の鮨(鮓)の「飯漬け」期間を比較して、その期間の「短縮」が証明されていたわけではない。奈良、平安時代においても、食材の種類や「飯漬け」の時季により、醱酵の度合いには差があり、数日間の発酵のものもあれば、1、2箇2ヶ月のものもあるとされる<ref>{{Cite journal|和書 |author=櫻井信也 |year=2013 |title=室町時代から織豊時代の鮨(鮓) |journal=栗東歴史民俗博物館紀要 |volume= |issue=19 |pages= |publisher= |naid= |issn= }}</ref>。従来の見解は、数箇月間以上の「飯漬け」を行う現在{{いつ|date=2014年3月}}<!-- See [[WP:DATED]] -->の滋賀県の「ふなずし」を奈良時代以来の「[[なれずし]]」、これよりも「飯漬け」期間が遙かに短い和歌山県の鯖の「[[なれずし]]」などを「生成」であるとする理解から導き出されたものであるという。そして、「生成の鮨(鮓)」とは、十分な熟成を経ない半熟の鮨(鮓)ではあるが、飯を共に食するというものではなく、敢えて半熟状態のものを試みに賞翫するというもので、「鮒鮨(鮒鮓)」に限られていることから、これは「鮒鮨(鮒鮓)」の食方を意味する言葉であり、室町時代以降のそれまでの「なれずし」が「生成」になるという篠田統以来の従来の理解は誤りである。また、[[酢]]を[[調味料]]として食することに特徴があり、寿司に[[酢]]を用いる契機となったとされる。そのため、「ホンナレ」と「ナマナレ」という区別も改められなければならないことになる。
 
時代が下るとともに酒や酒粕、糀を使用したりと、寿司の発酵を早めるため様々な方法が用いられ即製化に向かう。そして1600年代からは酢を用いた例が散見されるようになる。岡本保孝著『難波江』に、「松本善甫という医者が[[延宝]]年間(1673年-1680年)に酢を用いたすしを発明し、それを松本ずしという」とあるが、日比野光敏によれば「松本ずし」に関する資料は他になく、延宝以前の料理書にも酢を使った寿司があるゆえ「発明者であるとは考えられない」としている。誰が発明したかはともかく、寿司に酢が使われ、酢の醸造技術も進んできて、いよいよ発酵を待たずに酢で酸味を得て食する寿司、「早寿司」が誕生することになる。